※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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土佐のご隠居様である山内容堂公と武市半平太など勤皇派の関係は微妙なものだった。そもそも、安政の大獄で隠居のやむなきになり、謹慎を命じられていた容堂公を救出したいという思いが土佐勤王党の原点であった
しかし、武市半平太らが容堂公お気に入りの吉田東洋を暗殺したことには容堂公は怒られただろうが、門閥派と勤王党が手を握って政権を押さえた以上は、ご隠居さまの立場で、それはだめだともいえず、追認のかたちだった。
殿様は家来同士の争いにあまり介入しないものなのだし、殿様は豊範公だという建前もある。
その後の豊範公の上京、勅使随行についても、危うさは感じる一方、勤皇を旨とする立場の容堂公としては、それなりに家来たちが大成功をおさめている以上は悪い気がしなかった。
そんなわけで、三条勅使が江戸へ下ってきたときは、容堂公としても首尾が上々に行くようにそれなりに独自ルートで努力もされた。
だが、下士たちが藩政のみならず朝廷や幕政まで壟断するありさまには手を焼いておもしろくなかったのも事実である。
そして、それが、この年の容堂公の帰国と、同じ時期に起こった8月18日の政変を機に、容堂公のバランス感覚が勤王党の大粛正という結果になった。
もともと、勤皇派を良く思っていなかった容堂公が、一気に逆襲に出たというような見方はおかしい。容堂公はもう少し複雑な人物だ。
容堂公が、家臣たちと談話されていたときのことだ。
「戦国武将でわしに一番似ているのは誰か」と問われた。ある者が、「おそれながら、毛利元就」と申したところ、「そうか。しかし、もし、吉田が生きていたら織田信長といってくれただろうに」とため息をつかれた
本当は信長になりたいのだが、慎重に配慮しすぎて策士というイメージしかない元就に似ていると見られるのが、この殿様の理想と現実のギャップだというのが辛いところなのだ。
容堂公は京都にあっては尊皇攘夷派の意向に従っておられたが、このあたりがしおどきとみられて、3月20日になると、土佐の海防強化が必要だとして京都を離れられた。
容堂公は高知に入るとさっそく体制の立て直しを始められた。あとで説明する青蓮院令旨事件で間崎哲馬、加尾の兄の平井収二郎は投獄され、武市半平太も不安を感じながらも4月8日に伊予の馬立で容堂公に拝謁したあと、帰国命令に従った。久坂玄瑞らは長州への脱走を勧めたが、半平太は取り合わなかったのである。
さらに容堂公は、いわばクーデターに踏み切られて、半平太が擁立した大監察小南五郎右衛門、家老の渡辺弥久馬、国家老の深尾鼎らを解任された。4月23日のことだ。
一方、5月になると、下関では「攘夷実行」とばかりに長州がアメリカ商船ベムプローク号を砲撃した。それからさまざまな形で展開する事件の始まりである。
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