龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

この年も上方にいたが、兄の権平が、御用を命じられて上洛してきたので会うことができた。土佐を脱走してから心配をかけてきたが、幕府高官である勝先生のもとで活躍している姿を見ては、坂本家の誉れと喜んでくれた。

勝海舟/Wikipedia

姉の乙女に脳天気な手紙を書き送ったのはこのころだ。

「そもそも人間の一生など分からないのは当然で、運が悪ければ風呂桶の縁でキンタマを詰め割って死ぬ人もいる。私など運が強く、いまでは、日本第一の人物勝麟太郎という人の弟子になり、毎日、前々から心に描いていたことができるように成り、精を出しています。

それゆえに、40才くらいまでは家には帰らんようにするつもりで、兄さんにも相談したところ、承知してもらいました。国のため、天下のために力を尽くしているので喜んでください」

このあと私は江戸に下って沢村惣之丞らと大久保一翁先生を訪ねた。この前年に大久保先生は、朝廷がどうしても攘夷と言い張るなら、「断然、政権を朝廷にお返しして、神祖以来の駿遠参に引き払って一諸侯になればよい」という意見を述べておられる。大政奉還論の嚆矢であり、その識見にあらためて感心したのである。

幕府の立場からすれば、井伊大老のように政治は幕府に任せたはずというのか、逆にこういう意見こそが筋のとおったものなので、朝廷に攘夷すると約束しながら、サボタージュするなどというのはおかしいのである。

このとき、大久保先生は勝先生と松平春嶽公への書状を私に託された。勝先生には和歌山でお渡しすることができたが、春嶽公は福井へお帰りになっておられたので、それを追って北陸まで追いかけていった。

一方、大坂では勝先生が大活躍しておられた。京都から江戸に戻ることを朝廷から許してもらえない家茂公を、勝先生は海防視察を口実に大坂に誘い出され、神戸まで航海に誘われ、その船上で操練所設立の許可を取ってしまわれた。

このとき家茂公は、「若年といえども真に英主の御風あり」だったと先生はいい、そののちも家茂公を一生慕われたのである。4月23日のことだ。英主かどうかは別としてまっとうな将軍だった。

徳川家茂像(九州博物館蔵Wikipedia)

その二日後、今度は、攘夷派の若い公卿である姉小路公知公がやってきて、やはり順動丸で播磨の沖まで足を伸ばされた。勝先生は諄々と海防の必要性を訴えられたところ聡明な人だけあってさすがによく理解されたのだが、そのことが攘夷派から裏切りととられたのか、少し後。薩摩の田中新兵衛に暗殺されてしまった。

このようにすべてがうまく運び、勝先生は海軍操練所の取り締まりを命じられ、公式の開所までも、私塾で弟子を取ることを幕府から許されたのである。

この勝塾で私は、佐藤与之助(政養)とともに塾頭をつとめた。佐藤は庄内出身で、1854年に勝先生に弟子入りし、渡米中は留守を預かった。長崎海軍伝習学校で天文・測量・航海術を学んだ。横浜港の開港に力があり、また、維新後は鉄道の建設に力を尽くした男だ。だいたい、内部の経営は佐藤が、渉外は私が担当したのである。

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