龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

順動丸 Wikipediaより

文久3年の後半からは残念な方向になっていくのだが、勝先生のもとでの私の仕事は順風満帆に発展していった。

この年のはじめの、1月8日には土佐藩から甥の高松太郎のほか、千屋寅之助、望月亀弥太が航海術修行を命じられた。「竜馬がゆく」ではお龍の弟の楢崎太郎も入門していたとあるが、まだ、お龍と会ってもいないころだから関係ないし、太郎はのちに神戸操練所で預かった時期があるが、そのときでも10才の子供だ。

寅之助はのちにお龍の妹である君枝と結婚する男である。私より七歳年下で、安芸郡和食村(現芸西村)で庄屋の三男として生まれ、土佐勤王党では34番目の加入者だった。中岡慎太郎の率いる50人組の一員として江戸へ出て、千葉定吉道場で私と知り合った。維新後はアメリカに留学したあと海軍少佐となった。

亀弥太は清平の弟だ。池田屋事件で新撰組に襲われ、長州屋敷に保護を求めたが断られ、自刃した。

しかし、私はこの段階では、土佐からみればなお無断脱走の罪をおかした罪人であることに代わりはなかった。

勝先生も何とかしたいと思っておられたところ、1月に勝先生が上方から江戸に順動丸という軍艦で帰られることになり、この途中、伊豆の下田に寄港したところ、宝福寺というところで勝先生とたまたま滞在されていた容堂公が会見されることとなった。

そのときに私の脱走を赦免するように頼んでくださったのである。

容堂公は、「まあ飲めよ」と先生にお勧めになり、酔いが回ったあたりでまた宥恕を請う勝先生に「いいよ」とおっしゃる。それだけでは心配な先生が何か証拠をというと、公は扇に瓢箪の絵を描き、「歳酔360回 鯨海酔侯」と揮毫された。郷士のことなどどうでもいいのだ。

2月には千葉重太郎から頼まれた越前の松平春嶽公が、容堂公に私の脱走を許すように念を押してくださった。

2月25日には、京都の土佐屋敷の望月清平と島村寿之助に呼び出された。二人とも勤王党の仲間だが、彼らは、邸内の一室で7日間の謹慎を条件に赦免するという。

役人としては寛大な処分のつもりだっただろうが、私にとっては大苦痛で、「よくも俺をこんな目に遭わせておって」とわめき散らしたので、まったく子供っぽいやつだと笑い物にされてしまった。

3月になると、将軍家茂公が三代将軍家光公が最後に上京されたときから2世紀ぶりに京都に登ってこられたころだが、私は安岡金馬ともども、勝先生のもとで航海術を学べと命令を受け、ありがたいことに月に土佐から月2両の手当までもらえることになった。

安岡家は馬ノ上村(芸西村)で庄屋を務め、金馬は田野学館で学んだ。のちに帰国命令に従い私と袂を分かったが、勤王党弾圧が厳しくなると長州に脱走し、禁門の変に参加、三条実美ら五卿とともに太宰府にあったあと海援隊に入った。維新後は土佐商会や海軍で活躍し横浜に住み、お龍が再婚する時には媒酌人を務めた。

*龍馬が土佐を脱走してからどうして生計を立ててきたかは謎のままだ。ほかの脱走者と同様に長州当局や、尊攘派の富豪などの援助はあっただろうが、それだけではあるまい。兄の権平にも事前に相談して、それなりの資金は持っていたのでないかと思う。 龍馬の脱走は、むしろ、家族に迷惑をかけないためという要素もあったし、そうでなくとも、吉田東洋暗殺以降は、土佐勤王党員は、藩政を牛耳る与党的な立場になったから、龍馬も本当の意味でのお尋ね者でもなく、権平が人に託して送金することがそれほど難しかったとは思えない。

ただし、坂本家の財力を持ってしても、龍馬が子分を抱えたりすることを支えたりすることは無理で、その資金は龍馬が別の方法で調達することが必要になってくる。つまり、現代の政治家志望の小金持ち青年と同じで、バカ息子の生活費くらいは仕送りできても、政治資金までは無理なのと同じだ。

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