※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
土佐の殿様であるある豊範公が江戸に着かれた頃、私は一足先に着いた江戸で、千葉道場に身を寄せた。豊範公は勅使三条実美、副使姉小路公知に随行して江戸に着いた。10月18日のことだ。武市半平太もなんと諸太夫柳川左門というのに化けて大きな駕籠に乗ってやって来た。
そこで、11月12日には万年楼という料亭で、久坂玄瑞や高杉晋作と一献傾けることになった。半平太の使いとして長州へ行った縁が生きたのである。
また、江戸では勤王党の一員だが学者で容堂公の信任も得ている間崎哲馬(滄浪)と会った。私は脱走して来た身であるが、彼を仲介に土佐の仲間とも密接な関係を維持して活動することができたのである。
このころ、香美郡山北村出身の郷士で土佐勤王党の五番目の加入者である門田為之助などとも、会食などするようになった。門田は京都生まれで、容堂公の側近の一人だった。
勝海舟先生と会ったきっかけは、間崎哲馬のおかげである。天保5年生まれだから、私より一歳上である。高知城下の下種崎町(高知市はりまや町1丁目)に医師の子として生まれた。間崎家は幡多郡間崎村の庄屋だったが、総之亮が城下に移って医者になっていた。6歳で漢詩文を読むという秀才で、岩崎馬之助(弥太郎の親戚)や細川潤次郎とともに『土佐の三奇童』と呼ばれた。つまり私などとは比べものにならない秀才だったのだ。嘉永2年には16歳で江戸へ出て、すでに従兄弟の間崎道琢が入門していた安積艮斎の塾で学んだ。ここでも才能を開花させ、塾頭までつとめた。
山岡鉄舟や清河八郎などとも交遊し、帰国すると徒士、文武下役として採用され江ノ口村小川淵(高知市北本町1丁目)で私塾を開いた。ここでの弟子に吉村虎太郎、中岡慎太郎、能勢達太郎、沢村惣之丞らがいる。
そして、江戸で結成された土佐勤王党には4番目に名を連ねているが、このころ、土佐にいたはずなので、たまたま江戸に出張していたか、大物なので土佐にいたにもかかわらずここに名を置いたのか私もどういう事情だったかよく知らない。
私が脱走する直前の文久2年3月5日に政庁の許可を得て村田忠三郎と共に江戸へ遊学に旅だったが、江戸に多くの知己をもつ哲馬には江戸で情報活動に当たるのも良いと半平太も考えて了承したのだろう。
江戸では桂小五郎や伊藤博文ら長州の志士たちと交流したが、彼が自炊しているのを見て、山岡鉄舟は手伝いをつけてやったという有名人だった。要するに、この時点では私とは比べものにならない輝ける存在だったのだ。のちに土佐の内政改革のために青蓮院を利用しようとした青蓮院令旨事件で悲劇的な死を迎えることになる哲馬だが、私にとっては、大恩人の一人である。
この哲馬が12月5日に福井の松平春嶽公と会うというので、私もいっしょに拝謁した。このとき、私は大坂で見てきた知識をもとに摂海(大阪湾)の海防について意見を披露したところ、春嶽公はたいへん喜ばれて、勝海舟先生と会うことを勧めてくれた。
勝海舟先生といえば開国派で咸臨丸で米国に行った人物であるので、そのころ攘夷派だった私としては、斬りたいような人物などといったような気もするが、このことがのちに、勝先生が「あいつははじめ俺を斬るといってやってきたのさ」とおっしゃった原因になる。だが、まさか春嶽公に紹介されて訪れて本当に斬るはずもないだろうから勝海舟先生らしい法螺だ。
それに、勝先生は勤王党の仲間である大石弥太郎の師でもあるわけで、その噂は弥太郎からも早くから聞いており、さっそく、四日後にお訪ねたところ、知識と見識の差に圧倒され、心酔してしまった。
そこで、弟子にしてくれというと、「ああいいよ」ということになった。いわば私設秘書だ。
勝先生を下級武士という人がいるが、とんでもない誤りだ。江戸時代の武士が上士と下士で二つに分けられ、それを幕府では旗本と徒士といったが、勝先生は禄高は低いものの生まれながらの旗本で、実力と運次第では幕閣の要職を占めることがいくらでも可能な立場だった。
先生は幼少のころ小姓として仕えた若君が早世して運を掴まえ損ねたりされたが、先見の明を発揮して蘭学を学ばれているときに、黒船が来航して、そのお陰で出世の足がかりを得られた。
安政の大獄前後には長崎の海軍伝習所におられたので、薩摩など各藩の俊英と交流できた上に、政争に巻き込まれずに済んだ。しかも、井伊大老の派遣した訪米使節では咸臨丸に乗って参加し、帰国後には文久の政変で薩摩の影響力が強まったあとの新体制で軍艦奉行に抜擢されていた。
禄高も臨時の職務給を加えて1000石取りになられたのだが、もともと微禄だからそれにふさわしい家臣などしない。しかも、急に昇給したのだから懐具合もいいと思われそうだが、実は反対なのだ。
現代のサラリーマンでもそうだが、出世すれば付き合いの資金もいるし、服装、持ち物、屋敷などもそれなりのものもいるが、代々の高官と違って、全部、新しくそろえなくてはならない。昇任について世話になった人にお礼もしなくてはならない。
そんなわけで成り上がると、懐具合はとても厳しくなって、新しく家来など雇えない。そこへ私のような、金持ちの息子で、体が大きくて剣術の腕も上々、しかも弁舌にも長じた若者がやってきて、弟子入りさせてくださいというのだから、願ったりかなったりだっただろう。
現代で言えば、新進政治家のところに、地方のお金持ちのボンボンで体育会系の青年で弁も立つのが手弁当でいいから秘書にしてくれといってきたようなものなのだ。雇わない方がおかしい。
こうしてともかくも、私は土佐藩からの脱走者という身分はそのままだが、勝先生の私設秘書になったのである。
12月には勝先生が大坂、兵庫に出張されたので、私もこれを追い、途中で京都に立ち寄って兵庫で先生にお会いしたときに情勢を報告した。千葉重太郎を同行させたのはこのときのことだ。
言い忘れたが、勝先生にはこのころもう一人土佐人の弟子がいた。坂本家の近所の饅頭屋の息子、近藤長次郎であって、こののち、私の弟分として長く行動をともにすることになる。
*龍馬がいつ誰と勝海舟を訪ねたかは諸説ある。勝が明治になって回顧したところでは、松平春嶽の紹介で重太郎とともに自分を斬るつもりで江戸の屋敷にやって来てが、話すうちに感化したというが、勝の日記に12月29日に鳥取藩の渉外担当として雇われることになった千葉重太郎とともに兵庫で会って京都の情勢を報告したというものがあり、このときのことと混同したようである。時期的な問題なども考慮すると、勝の日記に「有志、量三輩の来訪あり。形勢の議論をする」(12月9日?)とあるのが、それに当たるのではないか。「竜馬がゆく」では千葉重太郎と一緒だと書いてあるが、根拠はない。誰と一緒だったかは、まったく、手がかりがない。
正々堂々と武装したまま江戸に向かったのである。
斉彬公流の慎重に根回しをしたやり方でなく、久光公の荒っぽくとも筋を通す行動が意外な大成功を収めたのである。
江戸に6月7日に着いた彼らの要求で、井伊大老の流れをくむ政治家は一掃され、一橋慶喜公が将軍後見職、松平春嶽公が政事総裁職となり、山内容堂公も名誉回復され、桜田門外の変のあとも中途半端になっていた改革があっさり出来てしまったのである。
気の毒なのは彦根藩で、直弼公の横死を病死として偽ったとして35万石から20万石に減封されてしまった。そして、そのことが、のちに鳥羽伏見の戦いの時に彦根藩が薩摩と組んで官軍につき幕府に致命傷を与えることになる。
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