龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

島津久光肖像画(原田直次郎 – 尚古集成館所蔵品/Wikipedia)

薩摩の国父である島津久光公が兵を率いて上京されたのは文久2年(1862年)のことである。明治維新がフランス革命の日本版だったとすれば、7月14日のバスティーユ牢獄襲撃にあたるターニングポイントがなんだったといえば、薩摩の国父である島津久光公が上洛された事件ではなかろうか。

久光公の兄である斉彬公が亡くなったのは前々年のことである。安政の大獄のときに鹿児島におられて処罰は免れられたので、江戸に兵を率いて上る準備をされているときに病を得て急逝されたのだ。

跡継ぎには、弟の久光公の子である忠義公が就かれた。しかし、後見役になられたのは、斉彬、久光両公の父である斉興公である。そして、斉彬公の開明的な政策を次々と否定され、斉彬公の側近も粛清されて、西郷隆盛も奄美に流されてしまった。

「竜馬がゆく」では斉彬公から久光公があとを託されたことなっているが、斉興公による院政時代が飛ばされてしまっている。これは小説といえどもよくない。それでは、西郷隆盛を奄美に流したのは、斉興公であって、救い出したのが久光公だということが、分からなくなるから困ってしまう。

久光公は反斉彬勢力に担がれ、そのために高崎崩れと呼ばれる斉興公の跡目を巡るお家騒動が起きたこともあるのだが、久光公はそういう事件があったこともご存じなかったそうだ。

江戸育ちの斉彬公は、国主となられてから久光公と直接に会われるようになり、この薩摩で生まれ育った異母弟を高く評価されたし、久光公も斉彬公の開明的な方向をよく理解されよき協力者になられたのである。

斉彬公が亡くなる直前に、勝海舟先生が咸臨丸に乗って指宿に立ち寄られたことがある。そのとき、久光公を勝先生に紹介して「若い頃から学問を好み、その見聞と記憶力の強さ、志操方正厳格なところも自分に勝っている」といわれたという。しかし、久光公も斉興公ご存命のうちはだまって見ているしかなかったのである。

だが、その翌年の文久元年になって斉興公が亡くなられたので久光公が後見となられた。久光公は就任されると大久保利通を抜擢して改革路線に立ち戻られた。そして、斉彬公の遺志を継ぎ、兵を率いて上京・出府して中央政界に進出することを、1月に布告されていた。西郷隆盛も、2月に大久保の尽力で奄美から呼び戻された。

これを聞いて、全国の尊皇攘夷勢力は驚喜し、久光公の上京に呼応して挙兵し、一気に新しい政体を作り上げようとしたのである。

久光公は3月16日に鹿児島を出発され、4月10日には大坂に入られ、16日に上京され志士たちの気分の高揚も頂点にたっした。だが、久光公はもともと過激な尊皇攘夷派をよく思っておられなかった。

それは、孝明天皇も同じで、久光公は天皇から京都の治安を乱している浪士の鎮撫を要望され、伏見の寺田屋に集結して各藩の志士と連絡を取り合っていた自藩の有馬新七らをなんと上意討ちにされたのである。

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このとき、西郷さんは、中央政治の経験もない久光公の上京など無謀といったり、過激派藩士の動きを押さえるためと称して勝手に上京したりして、6月には再び追放されてはるか沖永良部島に再追放されてしまった。

そして、寺田屋事件での断固とした姿勢で、孝明天皇はたいへん久光公を信頼されるようになった。大原重德公を勅使として幕政改革を要求するために東下させるにあたり、久光公と薩摩兵にそれを護衛することを命じられたので、正々堂々と武装したまま江戸に向かったのである。

斉彬公流の慎重に根回しをしたやり方でなく、久光公の荒っぽくとも筋を通す行動が意外な大成功を収めたのである。

江戸に6月7日に着いた彼らの要求で、井伊大老の流れをくむ政治家は一掃され、一橋慶喜公が将軍後見職、松平春嶽公が政事総裁職となり、山内容堂公も名誉回復され、桜田門外の変のあとも中途半端になっていた改革があっさり出来てしまったのである。

気の毒なのは彦根藩で、直弼公の横死を病死として偽ったとして35万石から20万石に減封されてしまった。そして、そのことが、のちに鳥羽伏見の戦いの時に彦根藩が薩摩と組んで官軍につき幕府に致命傷を与えることになる。

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