龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

横井小楠 Wikipediaより

土佐が騒がしくなってきた頃、私の方は勝先生に頼まれて、越前の春嶽公のところに金策に行かされた。幕府は勝先生に3000両の予算は認めていたが、それでは、足りなかったのだ。

福井では高名な横井小楠先生にお会いして用立てを頼んだところ、1000両の借用に成功した。横井先生とはすっかり意気投合した。

また、あとでまた紹介する財政通でのちに「五箇条の後成誓文」を起草した三岡八郎(由利公正)などとも一緒になって歌など歌って楽しく過ごした。「君がため捨つる命は惜しまねど 心にかかる国の行く末」などという和歌もこのとき詠んだものだ。

由利公正 Wikipediaより

このときの金額を5000両とする資料もあるが、それはちょっと大きすぎる数字で1000両が正しい。

このころ、春嶽公が挙藩上京されるという話があった。これは、横井先生らが推進したもので、テロに明け暮れる京都の秩序を取り戻すためにも、土佐や肥後と連携した上で、福井から数千以上の兵を京都に出し、政局の主導権を握ろうというものだった。

だが、家茂公が五月に江戸に帰府されたことから、通常通りに江戸に参勤交代すればよいという意見が出たり、協力を求めた肥後などがあまり乗り気でなかったことから見送られ、この失敗がきっかけとなって横井先生は熊本に帰り、そこで、新政府成立まで幽居されるのである。

この旅の途中、私は乙女宛に有名な「エヘンの手紙」を書いている。「最近は日本で一番の軍学者、勝麟太郎という大先生の門人となり、ことのほか可愛がられ、いってみれば客分のようなものになった」

「近いうちに大坂から10里余りの兵庫というところに、海軍を教えるところをり、1000メートルもある船を造り、弟子も4、500人も各地から集まるので、私や高松太郎も稽古し、そのうちに練習用の蒸気船で土佐にも参りますから、そのときはお目にかかりましょう」

「私の考えにはこのごろは兄さんも同意し、面白い、やってみろと言ってくれています。少しエヘンの顔をして、ひそかに目立たぬようにしています。まあ、勝先生ともなると人を見る目があるものだなあと思います」

「エヘン、エヘン。追伸 この手紙のことを人に言うと誤解されたりもするので、一人に留めておいてくださいね」といった具合だ。

だが、土佐では容堂公が徒党を組むことを自粛するようにと布告され、勤王党への包囲網は徐々に強化されていたのである。

私も調子に乗りすぎていたのであって、今になって思えば、楽観的にものを見過ぎていたようだ。

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