龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

堺町御門 Wikipedia

慶応3年に幕府が倒れたことを、突然の大事件だというのは誤りだ。私が死んだあとに、明治の御代で起きたことは驚くべき変化だが、日本や中国の歴史は私たちの世代でもよく知っているのだから、徳川の時代が永遠に続くなどと皆が思っていたわけない。

もし後醍醐天皇のように孝明天皇がお考えずに、文久3年に八月一八日の政変が起きなければ、幕府は政権を返上せざるを得なかったのでないかとすら思える。実際、既に紹介したように、幕臣の大久保一翁などは私に、駿遠三に徳川は引っ込めばいいとかいっていた。井伊大老なら断固、抵抗されただろうが、そういう老中も幕府にはいなかった。

され、この日の朝、会津と薩摩の兵が御所の九門に兵を出して固めた。そして、三条実美ら尊攘派の公家たちの参内を禁じ、長州の堺町御門警護を排除したのである。

このころ尊攘派は、攘夷が実行されないことに苛立ち、孝明天皇を神武天皇陵や春日大社に参拝させ、それと同時に武力蜂起をして一気に政権を奪おうとしていた。いわゆる大和行幸計画である。

だが、これに対抗して薩摩と会津、それに公武合体派の公家たちが組んでおこしたのが、このクーデターであった。この結果として幕府はその命を四年ほど長らえた。薩摩が主導権をとったというのはのちの歴史の展開からすれば不思議だが、このころは西郷がまだ京にいなかったのである。また、長州贔屓の一橋慶喜もいなかった。

一方、土佐ではこの事件で容堂公が尊攘派を斬ることに踏み切られた。

7月29日に半平太が容堂公に会ったときには、「土佐守(豊範)や少将様(豊資)もおられるので勝手には君たちの言うような改革ができず申し訳ない」、「将軍が攘夷について違勅すると明らかになれば、必ず、将軍の首をわしが取る」などと半平太の意を迎えるようなことをおっしゃっていたのだ。容堂公といえども勢威を誇る勤王党に配慮し媚びなくてはならなかったともいえるし、場合によってはそちらに乗る気もあったのだろう。

だが、京都での政変が起きると、容堂公は国境警備を厳重にされ、このために長州へ下る三条実美ら七卿からの檄文を届ける宮部鼎蔵も国境で阻止された。そして、9月21日には半平太が下獄させられたのである。

河野敏鎌(万寿弥)、小畑孫次郎(美稲)、小畑孫三郎、島村衛吉も同時に逮捕された。このうち、河野と孫次郎は明治まで生き残って政府高官にもなったが、残りの二人は獄死した。

もうひとつ残念だったのは、天誅組の敗戦である。この政変の前日、尊攘派公家で明治天皇の叔父にあたる中山忠光が率いる天誅組は、大和五条の幕府代官所を襲っていた。三八人の同志のうち吉村寅太郎など一八人が土佐出身者だった。

だが、八月十八日の政変が起こり、大和行幸は中止となり、彼らは孤立した。天の辻に本陣を移し、十津川郷士960人の応援を得たが、高取城攻撃に失敗し、朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が届いたことから彼らの離反も招き、9月19日に至りちりぢりになって逃亡した。

「先日、大和の国で戦のようなものがあり、そのなかに、池内蔵太、吉村虎太郎、平井収二郎の親戚の池田の弟(土居佐之助)、水通町のおさとの坊主(上田宗児)などがいましたが、負けてしまったそうです。みんな戦いの仕方をしらないので一方的にまけてしまったようです。私が少し指図すれば、打ち破れたのにと残念です」と江戸から書き送った。

吉村は茶店の老婆の通報で追い詰められ、「吉野山風に乱るるもみじ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ」という辞世を残し、伊勢津藩兵の銃弾に倒れた。土居はとらえられて刑死、上田はのちに戊辰戦争で戦死した。池内は大胆にも京都へ戻って生き延び、のちに海援隊に入る。

ついでながら、この事件で死んだなかに乾十郎がいる。土佐藩士だった広井磐之助というものが父を口論の末に殺して逃亡した同僚の楢崎三郎を仇討ちしようというので私も援助したが、このとき、勝先生の門人で大和五条の医者乾十郎が水戸浪士らとともに加勢した。

ところが、尊攘派の志士でもあった乾は水戸浪士らが勝先生を誅殺しようとしていることを聞きつけ、陸奥宗光に相談したことから、怒った水戸浪士らは乾を殺害しようとした。私は仲裁に入って乾を五条に帰しておいたのだが、この事件に参加して死んでしまったのである。

一方、京都でこの政変があった1月ほど前の7月、鹿児島では英国艦隊の襲来があり、いわゆる薩英戦争が戦われた。鹿児島の町が炎上するなど薩摩側の被害も大きかったが、英国艦隊も相当な被害を出して、英国は薩摩と接近することになる。やはり、交渉するにもいざとなれば戦うと言うことでないとろくな交渉はできないのである。

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