龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー

2021年02月10日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

蛤御門の変 Wikipedia

「蛤御門の変」とかつては呼ばれ、最近では「禁門の変」と呼ばれる京都市街で行われた戦いがあった、文久4年・元治元年(1864年)だが、私にとってはお龍との出会いの年であった。

参与会議はとにもかくにも開始されたが、そこへ長崎にあるフランス軍艦が下関を砲撃するらしいという報告が届いた。

そこで一橋慶喜公は、勝海舟先生にこれを中止させるために長崎へ行けと指示された。幕府の軍艦長崎丸は、2月14日に新しい神戸操練所を出港。私のほか千屋虎之助、近藤長次郎、安岡金馬、神戸次郎も先生に随行した

翌日、豊後の佐賀関へ着いた。歩いていたら、2週間くらいかかるのが、はやくなったものだ。

久住を通り抜けて阿蘇山の麓から大津を経て熊本に着いた。ここから勝先生は島原湾を雲仙の山並みを見ながら長崎に急行されたが、私は熊本郊外沼山津に閑居されていた横井小楠先生を訪ねた。

勝先生から金子を届けるようにというのが直接の目的だが、海防や、経済の仕組み、政体についてもいろいろお教えいただいたのはもちろんである。横井先生からは、養子の左平太など3人の親族を海軍塾の門下生として欲しいといわれ、連れ帰ることになった。

長崎で勝先生はフランスだけでなく、イギリス、アメリカ、オランダとも精力的に交渉され、とりあえず、横浜で幕府からの回答が出るまでは攻撃しないということでまとめられたが、この交渉に立ち会えたことが、私の交渉術をおおいに向上させた。

神戸ではようやく操練所がオープンできることになった。江戸とは独立し、朝廷も巻き込んだ海局(海軍)をつくるという私や勝先生のアイディアは採用されなかったのは残念だったが、門下生の宿舎も充実し、西宮あたりから和田崎にかけての台場防衛に塾生が雇われた。

このころ、考え始めたのが、蝦夷地開拓計画である。もちろん、蝦夷を開拓しようなどと言うのは、私のオリジナルな考えではない。かつては、田沼意次老中が興味を持たれたのだが、松平定信老中が下手に開発するより未開地のままにしておいた方がよいなどと訳の分からないことを申されて沙汰やみになっていた。

だが、各藩においても、領地の加増は期待できず、人口は増えてくるというなかで、フロンティアとしての期待があり、また、国防のためにも屯田が必要とか交易と植民の観点からも蝦夷への関心が高まっていた。水戸斉昭公とか鍋島直正公などその筆頭だったが、土佐勤王党の一員である北添佶麿もこの前の年に蝦夷地に渡っていたのである。

池田屋跡 Wikipedia

この計画は、京都などに跋扈する浪士の追い出し対策にもなるというので幕府も興味を示し、かなり具体化が進んだ。だが、6月5日に起きた池田屋事件に北添が巻き込まれて斬殺されたので頓挫してしまった。このころは、蝦夷地開拓が簡単にできるという考えが流行して、私もそれに乗りかけたのっだが、実際にはそんな簡単なものではなかったから、実行に移していたら大変だっただろう。

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評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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