龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

蛤御門の変 Wikipedia

「蛤御門の変」とかつては呼ばれ、最近では「禁門の変」と呼ばれる京都市街で行われた戦いがあった、文久4年・元治元年(1864年)だが、私にとってはお龍との出会いの年であった。

参与会議はとにもかくにも開始されたが、そこへ長崎にあるフランス軍艦が下関を砲撃するらしいという報告が届いた。

そこで一橋慶喜公は、勝海舟先生にこれを中止させるために長崎へ行けと指示された。幕府の軍艦長崎丸は、2月14日に新しい神戸操練所を出港。私のほか千屋虎之助、近藤長次郎、安岡金馬、神戸次郎も先生に随行した

翌日、豊後の佐賀関へ着いた。歩いていたら、2週間くらいかかるのが、はやくなったものだ。

久住を通り抜けて阿蘇山の麓から大津を経て熊本に着いた。ここから勝先生は島原湾を雲仙の山並みを見ながら長崎に急行されたが、私は熊本郊外沼山津に閑居されていた横井小楠先生を訪ねた。

勝先生から金子を届けるようにというのが直接の目的だが、海防や、経済の仕組み、政体についてもいろいろお教えいただいたのはもちろんである。横井先生からは、養子の左平太など3人の親族を海軍塾の門下生として欲しいといわれ、連れ帰ることになった。

長崎で勝先生はフランスだけでなく、イギリス、アメリカ、オランダとも精力的に交渉され、とりあえず、横浜で幕府からの回答が出るまでは攻撃しないということでまとめられたが、この交渉に立ち会えたことが、私の交渉術をおおいに向上させた。

神戸ではようやく操練所がオープンできることになった。江戸とは独立し、朝廷も巻き込んだ海局(海軍)をつくるという私や勝先生のアイディアは採用されなかったのは残念だったが、門下生の宿舎も充実し、西宮あたりから和田崎にかけての台場防衛に塾生が雇われた。

このころ、考え始めたのが、蝦夷地開拓計画である。もちろん、蝦夷を開拓しようなどと言うのは、私のオリジナルな考えではない。かつては、田沼意次老中が興味を持たれたのだが、松平定信老中が下手に開発するより未開地のままにしておいた方がよいなどと訳の分からないことを申されて沙汰やみになっていた。

だが、各藩においても、領地の加増は期待できず、人口は増えてくるというなかで、フロンティアとしての期待があり、また、国防のためにも屯田が必要とか交易と植民の観点からも蝦夷への関心が高まっていた。水戸斉昭公とか鍋島直正公などその筆頭だったが、土佐勤王党の一員である北添佶麿もこの前の年に蝦夷地に渡っていたのである。

池田屋跡 Wikipedia

この計画は、京都などに跋扈する浪士の追い出し対策にもなるというので幕府も興味を示し、かなり具体化が進んだ。だが、6月5日に起きた池田屋事件に北添が巻き込まれて斬殺されたので頓挫してしまった。このころは、蝦夷地開拓が簡単にできるという考えが流行して、私もそれに乗りかけたのっだが、実際にはそんな簡単なものではなかったから、実行に移していたら大変だっただろう。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら