※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
■
このころ、大坂にあった勝先生のところに西郷隆盛がやってきた。九月一一日のことだ。勝先生は鹿児島にも行って、斉彬公から弟の久光公を紹介されているくらいだから、意外なことに思う人もいるだろうが、このときが初対面である。
「征長について幕府の中でも意見がふんぷんと分かれているようですが、関東はどうするつもりなのかお聞かせいただきたい」と切り出した西郷に、勝先生は「天下危急のときにもかかわらず、だれもかれも私利私欲、小節ばかりさ。もうだめだね」とびっくり仰天するようなことをいう。
さすがの西郷さんもすっかり勝先生に惚れ込んで、「実に驚き入り候の人物で、とんと頭を下げ申した。どれだけ智略があるか知れぬ塩梅に見受け申し候」などと手紙に書いたほどだったという。
さらに、勝先生は兵庫開港問題について教えを請うた西郷さんに、「異国人も幕吏を軽蔑しているからかれらに談判させても無理だね。まあ、明賢の諸侯を四、五人集めて、その諸侯会議で政治を進め、海軍を充実させつつ、まずは、横浜と長崎を開き、大坂湾は少し後にすればいいんでないか」などともいい、西郷さんもすっかり納得した。
そして、この西郷さんと勝先生の出会いが私にとてつもない働き場をくれることになる。西郷と初めにあったのが勝先生なのか私だったかは忘れてしまったが、西郷はなんとも不思議な人だった。「大きくたたけば大きな答えが帰り、小さくたたけば小さく帰る」と印象を勝先生に話した。
このころ、江戸では松前崇広とか諏訪忠誠といったスケールの小さな保守派の小大名が政権を壟断して、勝先生の立場は悪くなってきていた。とくに、塾生で禁門の変や池田屋事件に参加した者がいたので、勝先生が天下の怪しげな浪人を集めて何か企んでいるという者もいた。
9月19日には塾生について身元調査が行われ、各藩は塾生を引き上げ始めた。越前までそうだったのだから。ほかは推して知るべしである。
10月22日には勝先生に大坂城代松平信古から町奉行の松平信敬を通じて、江戸からの呼び出しが伝えられた。先生は悄然と陸路、江戸に向かわれ、11月10日には、軍艦奉行を罷免された。寄合というが、事実上の無役である。手当も役職手当としてもらっておられた2000石から元の100俵取りになってしまった。
私たちはたちまち困窮したわけであるが、このとき、公金を50両ばかりいただいてしまった。松平信敬から400両を佐藤与之助に渡し、与之助はそのうち300両は為替にし、100両は北屋という商人に預けてあった。そのううち50両を、私と高松太郎と近藤長次郎でいただいたのである。退職金がわりの餞別だというつもりだった。
与之助は怒って返せと迫ったが、こちらも何かと入り用だから返す気などない。仕方なく与之助は借用書だけ受け取ったうえで、勝先生にいいつけてやると憤激していた。
しかし、私にも身の危険が迫ったので神戸から江戸に潜伏することになり、一方、近藤長次郎、千屋虎之助、高松太郎、新宮馬之助は薩州屋敷(当時は薩摩でなく薩州というのがふつうだった)にかくまわれたのである。
私は横浜で薩摩のための外国船借用交渉をしていた。ちょうど、このころ、薩摩では海軍力充実の必要性を痛感していた。薩英戦争もあったし、軍艦が長州の攻撃で沈められるという事件もあって人材不足になっていたのである。
だから、私のグループを丸ごと雇えるのは、願ってもない話だった。現代風にいえば、勝先生という代議士が落選したので、私たち秘書軍団はそのころ日の出の勢いだった別の政治家の事務所に移籍したということだ。
これを勝先生から積極的にお勧めいただいたとか、西郷にひと声かけていただいたかどうかは、幕臣だった勝先生のお立場もあるから詳しくはいわないことにしておく。
このとき、とくにお世話になったのが、大河ドラマ「篤姫」で主人公の恋人にされてしまった小松帯刀だ。肝属家というかつて島津と対抗した豪族の出身だが、平重盛の末と称する小松家の婿養子になり、久光公の側近として大久保、西郷らかつての斉彬公側近との仲を取り持った。
篤姫様とは実際には会ったことすらないだろうが、いい男だったのはまちがいないし、私の大恩人でもある。なにしろ、この年に七、8000両もの資金ショートを来したときに助けてくれたのだから神様か仏様のようなものだった。
勝海舟先生の失脚で行き場を失っていた私たちを海軍力の強化に役立つと見て大坂の薩摩屋敷に迎え入れてくれたのである。
この間にも第一次長州征伐は進められたが、諸大名の士気が上がらないまま、三家老の切腹、山口城の破却、三条実美ら五卿の出国などの条件で11月26日には終了した。五卿の出国は手間取ったが、12月4日に中岡慎太郎が小倉で西郷と会談して条件をつめ、太宰府に移すことになった。
こうした和平交渉は、長州では俗論派の主導で行われたが、これに反発する高杉晋作が15日に力士隊を率いる伊藤博文らと長府の功山寺で挙兵し、奇兵隊も山県有朋らと呼応して長州の政権を掌握することになった。
政権を握った高杉は、積極的に外国とも交易して最新式の武器を買い込む政策を展開することとなる。
■
「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら