龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと

2021年02月12日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

西郷隆盛 Wikipediaより

このころ、大坂にあった勝先生のところに西郷隆盛がやってきた。九月一一日のことだ。勝先生は鹿児島にも行って、斉彬公から弟の久光公を紹介されているくらいだから、意外なことに思う人もいるだろうが、このときが初対面である。

「征長について幕府の中でも意見がふんぷんと分かれているようですが、関東はどうするつもりなのかお聞かせいただきたい」と切り出した西郷に、勝先生は「天下危急のときにもかかわらず、だれもかれも私利私欲、小節ばかりさ。もうだめだね」とびっくり仰天するようなことをいう。

さすがの西郷さんもすっかり勝先生に惚れ込んで、「実に驚き入り候の人物で、とんと頭を下げ申した。どれだけ智略があるか知れぬ塩梅に見受け申し候」などと手紙に書いたほどだったという。

さらに、勝先生は兵庫開港問題について教えを請うた西郷さんに、「異国人も幕吏を軽蔑しているからかれらに談判させても無理だね。まあ、明賢の諸侯を四、五人集めて、その諸侯会議で政治を進め、海軍を充実させつつ、まずは、横浜と長崎を開き、大坂湾は少し後にすればいいんでないか」などともいい、西郷さんもすっかり納得した。

そして、この西郷さんと勝先生の出会いが私にとてつもない働き場をくれることになる。西郷と初めにあったのが勝先生なのか私だったかは忘れてしまったが、西郷はなんとも不思議な人だった。「大きくたたけば大きな答えが帰り、小さくたたけば小さく帰る」と印象を勝先生に話した。

このころ、江戸では松前崇広とか諏訪忠誠といったスケールの小さな保守派の小大名が政権を壟断して、勝先生の立場は悪くなってきていた。とくに、塾生で禁門の変や池田屋事件に参加した者がいたので、勝先生が天下の怪しげな浪人を集めて何か企んでいるという者もいた。

9月19日には塾生について身元調査が行われ、各藩は塾生を引き上げ始めた。越前までそうだったのだから。ほかは推して知るべしである。

10月22日には勝先生に大坂城代松平信古から町奉行の松平信敬を通じて、江戸からの呼び出しが伝えられた。先生は悄然と陸路、江戸に向かわれ、11月10日には、軍艦奉行を罷免された。寄合というが、事実上の無役である。手当も役職手当としてもらっておられた2000石から元の100俵取りになってしまった。

私たちはたちまち困窮したわけであるが、このとき、公金を50両ばかりいただいてしまった。松平信敬から400両を佐藤与之助に渡し、与之助はそのうち300両は為替にし、100両は北屋という商人に預けてあった。そのううち50両を、私と高松太郎と近藤長次郎でいただいたのである。退職金がわりの餞別だというつもりだった。

与之助は怒って返せと迫ったが、こちらも何かと入り用だから返す気などない。仕方なく与之助は借用書だけ受け取ったうえで、勝先生にいいつけてやると憤激していた。

しかし、私にも身の危険が迫ったので神戸から江戸に潜伏することになり、一方、近藤長次郎、千屋虎之助、高松太郎、新宮馬之助は薩州屋敷(当時は薩摩でなく薩州というのがふつうだった)にかくまわれたのである。

私は横浜で薩摩のための外国船借用交渉をしていた。ちょうど、このころ、薩摩では海軍力充実の必要性を痛感していた。薩英戦争もあったし、軍艦が長州の攻撃で沈められるという事件もあって人材不足になっていたのである。

だから、私のグループを丸ごと雇えるのは、願ってもない話だった。現代風にいえば、勝先生という代議士が落選したので、私たち秘書軍団はそのころ日の出の勢いだった別の政治家の事務所に移籍したということだ。

これを勝先生から積極的にお勧めいただいたとか、西郷にひと声かけていただいたかどうかは、幕臣だった勝先生のお立場もあるから詳しくはいわないことにしておく。

このとき、とくにお世話になったのが、大河ドラマ「篤姫」で主人公の恋人にされてしまった小松帯刀だ。肝属家というかつて島津と対抗した豪族の出身だが、平重盛の末と称する小松家の婿養子になり、久光公の側近として大久保、西郷らかつての斉彬公側近との仲を取り持った。

篤姫様とは実際には会ったことすらないだろうが、いい男だったのはまちがいないし、私の大恩人でもある。なにしろ、この年に七、8000両もの資金ショートを来したときに助けてくれたのだから神様か仏様のようなものだった。

勝海舟先生の失脚で行き場を失っていた私たちを海軍力の強化に役立つと見て大坂の薩摩屋敷に迎え入れてくれたのである。

この間にも第一次長州征伐は進められたが、諸大名の士気が上がらないまま、三家老の切腹、山口城の破却、三条実美ら五卿の出国などの条件で11月26日には終了した。五卿の出国は手間取ったが、12月4日に中岡慎太郎が小倉で西郷と会談して条件をつめ、太宰府に移すことになった。

こうした和平交渉は、長州では俗論派の主導で行われたが、これに反発する高杉晋作が15日に力士隊を率いる伊藤博文らと長府の功山寺で挙兵し、奇兵隊も山県有朋らと呼応して長州の政権を掌握することになった。

政権を握った高杉は、積極的に外国とも交易して最新式の武器を買い込む政策を展開することとなる。

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評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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