龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)

2021年02月13日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

勝海舟先生が軍艦奉行を解任されたのち、私は先生を追って江戸にあったが、なにしろ、幕府からも目をつけられていたので、表に出ての活動はできず、どこで何をしていたのか、記録にもあまり出ていないはずだ。

坂本龍馬と中岡慎太郎(coward_lion/iStock)

一方、弟子たちは薩州の保護下に入ったのはすでに書いたとおりだが、鹿児島ではさっそく高松太郎が久光公に海軍充実の建白書を提出して活躍していた。私はしばらく江戸にあった

が、元治2年・慶応元年(1865年)3月には京都に上った。18日には神戸操練所が正式に廃止となり、悔しい思いをしたが、時代が動く中でいつまでも悲嘆しているわけにはいかない。

そんななかで、4月5日には、土佐の土方楠左衛門久元と会った。上士出身だが、江戸で儒者大橋訥庵の門に学び、尊皇攘夷思想に傾倒した。上士としては珍しく土佐勤王党にも参加した。三条実美公の信任厚く、「七卿落ち」に従い、三条公や沢宣嘉公らとともに長州へ下った。明治になって、第一次伊藤内閣の農商務大臣、宮内大臣をつとめ、「明治天皇紀」を編纂している。

この年の4月に元治から慶応に改元された。このころ、幕府の方では、長州で正義派が政権を握ったのをみて、4月13日には第二次長州征伐を発令した。これと同時期に、出石に潜伏していた桂小五郎が、大坂を経て長州に戻り、政権の実質的な指導者になった。

この桂に、このころ長州に亡命していた中岡慎太郎は、しきりに薩長同盟を説いていた。なお、このころ、木戸という姓を敬親公からいただいたらしいので、これ以降は木戸孝允とする。

木戸孝允(国立歴史民俗博物館/Wikipedia)

中岡は安芸郡北川郷で大庄屋の家に生まれ、武市半平太の弟子である。土佐勤王党のメンバーだが弾圧が強化されたのち長州に亡命し、のちに薩長同盟の推進者として活躍し、陸援隊を組織した。

4月22日、私は西郷隆盛や、小松帯刀とともに京都を離れ鹿児島へ向かった。5月1日には鹿児島に着いた。はじめに西郷宅で、ついで小松屋敷でお世話になった。「鹿児島の町を歩いていたら、もじゃもじゃ頭の大きな男が歩いているので他国の武士だなと思って兄の家に着くとその男がいて、寝そべって本を読んでいた。あまりよく分からぬところがあると聞くので教えてやった」とか、褌の替えがなく、西郷夫人に、「西郷さんのお古を一枚使わしてくれんか」と頼んで譲ってもらったら、西郷さんが後でそれを聞いて、「お国のために命がけで仕事をしている人に失礼だ。新しいのを差し上げなさい」といったことを、西郷の弟の信吾(のちの従道)が後にいっているのは、このときのことだ。

亀山社中のアイディアも固めた。いわば薩摩の海軍の一部のようであり、いまでいうフィクサーのような政治工作もするが、活動資金はできるだけ交易など事業をして自分で稼ぐとか、薩摩などから少し上乗せしてもらうというアイディアだ。

ぺこりこ /写真AC

斬新なアイディアのようにいう人もいるが、安政の大獄で死んだ梅田雲浜など、むしろ商売の方が主だったくらいだし、フィクサーという仕事は、なかなか報酬を給料や仲介料、あるいは企画料という形ではもらえないものなので、現代でもだいたい公共事業、ODA、武器取引などといった政治利権ともからんだところで仕事をして稼がせてもらって活動資金にするのが普通だから、そんな珍奇なアイディアではない。

のちにこの活動の拠点を長崎の亀山というところに置いたので、亀山社中と呼ばれたりしたが、我々自身がそのように名乗ったことはなく、単に「社中」ということが多かった。ただ、ここでは、分かりやすいように、亀山社中という名を使う。

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評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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