※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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下関では、桂小五郎(木戸孝允)が西郷の到着を心待ちにしていた。ところが、豊後の佐賀関から中岡慎太郎がやってきて、西郷が京都の大久保から催促されて、下関に向かわずに直接に上方に向かったと聞かされた。
時期尚早とみたのか、本当に大久保からの催促がゆえかは分からないが、木戸がかんかんに怒ったのは当然のことだ。
まあそんなことも予想できなくもないことだったので、そのときの準備はしておいた。リスクマネージメントは得意な方だ。
私は長州が幕府からの要請で海外から武器調達ができなくなって困っていることに目をつけて、薩摩の名義で購入して、それを長州に横流しする取引を持ちかけた。
それを聞いて、桂小五郎も、気を取りなしてくれた。私にとっても、長崎で設立しよという社中の初仕事として好都合なもので大変魅力的なものだったのはいうまでもない。これは儲かる商売だ。また、伊藤博文からは蒸気船購入の斡旋を頼まれたが、これも、ありがたいことだった。
こうして、なんとか、長州の方から破談にされないようにだけはして、私は西郷隆盛を追って京都に向かったのである。
こののち、7月19日までは、私の動静で記録に残っているのは、岡山近郊で備前藩士の津田彦衛門、小松源治とあったことだけだ。薩長連携をめざして密かに動かねばならないこともあったから当然だ。
京都へ帰ると、8月の下旬に将軍家茂公が第二次征長のために上京してこられた。それに先だって、長州へ行く中岡慎太郎と田中光顕を伏見で見送った。田中は佐川土居に本拠を構える土佐筆頭家老佐川家の家来で、吉田東洋を殺した那須信吾の甥である。長く長州にあって、このころは十津川にあったのだが、この薩長を仲介する山場で乗り出してきてくれたのだ。
のちに宮内大臣になり、昭憲皇后の夢の話を広めたり、桂浜の銅像を建てるのを助けたりして、私が有名人になるについていちばん貢献が大きい男だ。このころから、私は伏見の寺田屋を定宿にするようになっていた。太閤殿下が伏見城を築かれて以来というもの、伏見までは摂海(大阪湾)からかなり大きな船が遡上できるようになり、下りは半日、上りでも一日で往来できたのである。
このために船宿が発達したが、食事を出したり休憩するだけで泊めることはあまりなかった。だが、寺田屋は有名な寺田屋事件でも知られるように薩摩とは特別のつなががりがあり、私も特別にここを利用できるようになったわけだ。「竜馬がゆく」では、最初の江戸行きのときから付き合いが始まっているが事実ではない。
ちょうど、9月6日には実家の近くに住んでいた土佐藩医川村盈之進と会うことがあって、実家の様子も詳しく聞くことができた。そこで、久しぶりに実家や近所の人に手紙を書いたりしたが、そのなかで、乙女に前の年からなさぬ関係になったお龍のことを紹介したので、明日は、彼女のことを紹介しておきたい。
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