龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い

2021年02月14日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」。宮内庁書陵部図書課図書寮文庫(Wikipediaより)

薩長同盟を私が薩摩に勧めて両者の間を取り持ったと思っている人がいるが間違いだ。そもそも、薩摩が私を雇って亀山社中などという会社を作ってくれて、お金もじゃぶじゃぶ使えるようにしてくれたのは、ひとつには、薩摩自身の海軍力強化のために勝海舟海軍塾残党を使うということもあるが、同時に、私が長州に伝手があることを知って、利用価値があると思ったからだ。

第一次征長戦争では幕府にいちおう付き合ったが、本当に長州が潰されたら、次は薩摩だとなりかねないから、ほどほどのところで、西郷が収めてしまった。そうなると幕府から薩摩はますます警戒されるから、長州との協力の可能性を模索するのは当然だった。

そこで、私にまず、征長戦争の和解条件で長州から大宰府に移されていた三条実美ら七卿の公家たちに会うようにいわれた。そこで、鹿児島には二週間ほど滞在して、16日に(このときは5人だが)陸路、薩摩藩士児玉直右衛門の同行を得て北へ向かった。

すでに鹿児島に出発する前に薩長が手を結ぶ可能性を多くの人が話しており、鹿児島へ向かう船の上や、薩摩に着いてからも議論を重ねてきたのである。

横井小楠 (Wikipediaより)

まず、めざしたのは五卿がいる太宰府だが、その途中、肥後の沼山津というところで横井小楠先生のもとを訪れた。このころ、肥後は第二次征長に積極的に参加する姿勢を見せており、横井さんもこれを支持していたので、これを止めたかったのである。

そこで私はなんとか考えを変えさせようと説得したのだが、横井さんは田舎にこもっているせいか最近の流れを理解されない。結局、もうおまえなどに会わないなどといわれて喧嘩別れした。

このときの会談の模様については、龍馬は横井に「先生は傍観してここぞというときにちょいと指図をしてくれればいい」と締めくくったという人もいるが、厳しい情勢のなかでは、そんなのんきな話では収まらず、あきれ果てて別れを告げた。

結局、横井先生は維新後まで熊本に留まり、慶応4年の4月になって新政府によって呼び出され、従四位参与として参画されたが、十津川郷士らに暗殺された。過去の西洋かぶれや、皇室について長い歴史のみを誇っているだけではだめだといったことを書いていたことがあるのが反発を招いたのであるが、私と一緒に薩長同盟のために汗を流して欲しかったと思っている。

太宰府では薩摩から派遣されている渋谷彦助と会って西郷隆盛の紹介状を見せ、三条実美公ら五卿と会うことができた。5月24日のことだ。「竜馬がゆく」では、思いつきで五卿を訪問したことになっているが、そんないい加減なことはしない。

ここで薩摩が第二次征長に乗り気でないことを説明し薩長連合の必要性を説き、長州から来ている小田村素太郎に長州との仲介を頼んだ。小田村は、のちに楫取素彦と名乗ってこちらの名前がよく知られている。吉田松陰先生の妹でNHK大河ドラマ『花燃ゆ』の主人公になった杉文と結婚した男だ。

太宰府には5月28日まで滞在し、三度にわたり五卿に会ってしつこいまでに薩長連携の必要を議論した。「龍馬面会。偉人なり。奇説家なり」と東久世通禧公から評されたのはこのときだ。

この科白も「竜馬がゆく」では三条公のものになっているが、東久世の日記にあるものだ。明らかに違う人の言動を別の人物のものにするのは司馬遼太郎さんもいかがなものか。誰か分からないでは小説にならないが、別の人と分かってるのに有名人にするのは納得できない。

このあと山鹿、木津之を経て黒崎港から下関に至り、小田村の紹介で豪商である入江和作を訪ねたあと、越綿屋弥兵衛のところで泊まった。

ここで疲れが出たか寝込んでしまったのだが、5月6日には木戸孝允がやってきた。なかなかの人物だが、西郷との会談を説いたが、承知させるのに三日間がかかった。その翌日、上方から来た土方久元が幕府の第二次征長が近そうなので、薩長連携を訴えるべく、薩摩の胡蝶丸で大坂から来て長府で下船した。

同じ船に乗っていた中岡慎太郎は薩摩に向かい、早くも6日には鹿児島で西郷と会い、桂との会談を了承させることになる。

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評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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