龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?

2021年02月19日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」。宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵。Wikipediaより。

西郷と木戸の話し合いで、木戸はこれまでの経緯を縷々申し立てて、長州は朝廷のことを思えばこそやってきたことが悪意で取られて討伐されることになったなどと過去を愚痴った。

西郷は薩摩の立場からすれば反論したいこともあろうが、「もっともでごわす」と相槌を打った。

しかし、具体的な話になると、西郷は、とりあえず、幕府側の処分案を受けるという姿勢にしたほうがその後の展開がやりやすいと主張した。いったん、受けると言っておいてうやむやにすればいいと西郷はいうのである。

薩摩とすれば、そのあたりが現実的なところなのだが、木戸とすれば薩摩の方針大転換が明確な形にならねばということと、和解の申し出を長州側からするというのでは追い詰められてということにしかとられず、長州の国内でももたないと主張した。

第一次征長のときに俗論派のだら幹どもがやったのと見かけ上は変わらないというのであって、木戸の立場からすればもっともだった。あげくのはては、「長州が滅亡しても、薩摩がその後を継いでくれれば本望であるから、長州は長州でやる」などと訳の分からんことを言い出した。

そうこうしているうちに、大久保利通は薩摩に呼び戻されることになり、21日には木戸もあきらめて帰国することになったという。

そこで、私は小松や西郷と談判して、とりあえず、薩摩側から桂の出発延期を要請させ、ようやく小松、西郷、桂の三者会談に私も同席して、ここで、口頭でだが六項目の密約が成立した。
その内容は、次のようなものだ。

①戦いになったら薩摩は2000名の兵を上京させ、在京の兵と合流させ、大坂にも1000名の兵を出し京坂を固める。

②長州が戦争に勝てそうなら、朝廷に働きかけ講和成立に尽力する。

③長州が戦争に負けそうなときは、抵抗して時間を稼ぐので薩摩は援護策を講ずる。

④幕府が関東へ引き上げたら薩摩は朝廷に長州の赦免を要求する。

⑤一橋・桑名・桑名が薩摩の周旋を妨げる時は薩摩も参戦する。

⑥長州の冤罪が晴れたら薩長は誠意を持って力を合わせて国家のために力を尽くし天皇親政を実現する。

というものだ。

これを私は22日と記憶するのだが、21日だったとするものもおり、もうひとつ自信がない。というのは、このあと、私にとっては大事件が続き、日記代わりのメモにも混乱があるからだ。

この薩長による盟約は、私の独創だとか一人の功績というわけでない。そもそも、誰が考えても薩長は関ヶ原からの経緯を考えても徳川にリベンジしたい気持ちは共通して持っていたのである。そして、薩長を結ばせることに私以上に熱心に動いたのは中岡慎太郎や土方久元である。

それに私はここに同席すべきところを、桜島丸のことなどで手間取って遅れたから混乱したのだ。私が薩摩屋敷に行かないまま、木戸が京都を離れてしまったら盟約は成らなかったかもしれないが、その場合でも薩摩は盟約で定められたような協力を事実上しただろう。あるいは、このときに、私でなく中岡が京都におれば同じような働きを下に違いない。木戸が出発しようというのを薩摩が私がいなくとも最後になって止めたかもしれないし、このときはだめでも遠くない時期に2回目の話し合いがあったかもしれない。

しかし、とりあえずは、物別れになったかもしれないところを、私が到着したことで時の氏神のようになったのは事実だし、原理原則や過去の経緯にとらわれない私の感性が大仕事に結びついたのも事実なのである。

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評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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