※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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長崎を経由して、鹿児島に着いたのは3月10日で、16日には傷療養のためにお龍と吉井幸輔と一緒に温泉巡りにでかけた。
日当山温泉、塩浸温泉、霧島山温泉所とまわり、逆コースで戻った。霧島では湯治にやってきていた小松帯刀を見舞い、高千穂峰に登った。お龍と渓流で魚を釣り、ピストルで鳥を撃って楽しんだ。
高千穂峰には天の逆矛があったが、天狗のお面のようなもので拍子抜けした。あまりおかしいので、お龍はこれを引っこ抜いて見せたが、まったくしょうがない女だ。肌寒かったので早々に引き上げることにしたが、下りの道では、霧島ツツジが咲き乱れ、まことに庭師が作り出したような風景だった。
そののち、6月4日には下関に到着。高杉晋作に会って桜島丸を引き渡し、あわせ千屋寅之助を船将にし、石田英吉など船員とともにつけた。これを長州では乙丑丸と名付けた。 しかも、さっそく、征長戦争(長州では四境戦争といっている。芸州口、石州口、小倉口、それに大島口だ)に参加して幕府軍との海戦にも少しだけだが参加した。
さらに、高杉晋作や薩摩の村田新八、それに土佐の溝渕広之丞と陸上の高台から観戦した。溝渕は私が最初に江戸に留学したときの仲間だったことを覚えておられる方もおられよう。
一緒に佐久間象山先生の元で学び、そののち、土佐で持筒役(大砲掛)をしていたが、慶応元年から砲術に磨きをかけるために長崎に留学してきていたのである。その時に、溝渕広之丞描いた絵図が今も残っている。
そのあと、山口で毛利敬親公に薩摩藩士として謁見を許され、短刀や羅紗生地などを拝領したあと下関に戻り、木戸に海戦を「野次馬させてくれまいか」などと書き送った。
戦況は大村益次郎が率いる石州口軍が浜田城を陥落させ、紀州など各国の軍を追い散らす大殊勲をあげた。小倉口では高杉晋作が小倉城を落城させた。小倉では藩主が死去し、親戚の老中小笠原長行が応援に駆けつけて指揮を執ったが、落城の憂き目にあった。
芸州口は幕府軍主力だが、先駆けとして攻め込んだ、高田藩(榊原氏)と彦根藩(井伊氏)は火縄銃に鎧兜で出撃して面目丸つぶれの惨敗になった。
大島口では、松山藩が島を占領したのだが、高杉晋作に奇襲され逃げ帰った。しかも占領中に松山藩は島民に乱暴狼藉を働き、女性を暴行などもしたので、長州藩から猛抗議を受け、戦争も終わってないのに、謝罪の使節を山口の藩庁に送らされる羽目になった。松山藩は、「戦いの最中にはありがちなこと」とか弁解したが、長州は許さなかった。明治になってからもそうだが、長州人は戦場における行儀はいいのである。
大坂ではかねてより脚気を病んでいた将軍家茂公が薨去されてしまった。家茂公のあと、将軍名代として実質的に幕府軍を率いることになって「大討込」などと弔い合戦に意気軒昂だった一橋慶喜公だが、小笠原から長州軍の強さを聞いてあっという間に弱気になられ、撤兵に向けて舵を切られ、八月二一日には征長も正式に中止になった。
孝明天皇が石清水八幡宮に戦勝祈願をさせたのに、梯子を外されたというのは、この時のことだ。
8月には私は薩摩にでかけたりもしたが、帰ってみると、長州の完勝となっていた。あっけないもので、長州藩としては、見事に関ケ原や禁門の変の悔しさを晴らすことになっていた。
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