龍馬の幕末日記㊿ 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌

2021年02月21日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

写真AC:編集部

長崎を経由して、鹿児島に着いたのは3月10日で、16日には傷療養のためにお龍と吉井幸輔と一緒に温泉巡りにでかけた。

日当山温泉、塩浸温泉、霧島山温泉所とまわり、逆コースで戻った。霧島では湯治にやってきていた小松帯刀を見舞い、高千穂峰に登った。お龍と渓流で魚を釣り、ピストルで鳥を撃って楽しんだ。

高千穂峰には天の逆矛があったが、天狗のお面のようなもので拍子抜けした。あまりおかしいので、お龍はこれを引っこ抜いて見せたが、まったくしょうがない女だ。肌寒かったので早々に引き上げることにしたが、下りの道では、霧島ツツジが咲き乱れ、まことに庭師が作り出したような風景だった。

そののち、6月4日には下関に到着。高杉晋作に会って桜島丸を引き渡し、あわせ千屋寅之助を船将にし、石田英吉など船員とともにつけた。これを長州では乙丑丸と名付けた。 しかも、さっそく、征長戦争(長州では四境戦争といっている。芸州口、石州口、小倉口、それに大島口だ)に参加して幕府軍との海戦にも少しだけだが参加した。

坂本龍馬によって作成されたとされる長州征討の図(Wikipediaより)

さらに、高杉晋作や薩摩の村田新八、それに土佐の溝渕広之丞と陸上の高台から観戦した。溝渕は私が最初に江戸に留学したときの仲間だったことを覚えておられる方もおられよう。

一緒に佐久間象山先生の元で学び、そののち、土佐で持筒役(大砲掛)をしていたが、慶応元年から砲術に磨きをかけるために長崎に留学してきていたのである。その時に、溝渕広之丞描いた絵図が今も残っている。

そのあと、山口で毛利敬親公に薩摩藩士として謁見を許され、短刀や羅紗生地などを拝領したあと下関に戻り、木戸に海戦を「野次馬させてくれまいか」などと書き送った。

戦況は大村益次郎が率いる石州口軍が浜田城を陥落させ、紀州など各国の軍を追い散らす大殊勲をあげた。小倉口では高杉晋作が小倉城を落城させた。小倉では藩主が死去し、親戚の老中小笠原長行が応援に駆けつけて指揮を執ったが、落城の憂き目にあった。

芸州口は幕府軍主力だが、先駆けとして攻め込んだ、高田藩(榊原氏)と彦根藩(井伊氏)は火縄銃に鎧兜で出撃して面目丸つぶれの惨敗になった。

大島口では、松山藩が島を占領したのだが、高杉晋作に奇襲され逃げ帰った。しかも占領中に松山藩は島民に乱暴狼藉を働き、女性を暴行などもしたので、長州藩から猛抗議を受け、戦争も終わってないのに、謝罪の使節を山口の藩庁に送らされる羽目になった。松山藩は、「戦いの最中にはありがちなこと」とか弁解したが、長州は許さなかった。明治になってからもそうだが、長州人は戦場における行儀はいいのである。

大坂ではかねてより脚気を病んでいた将軍家茂公が薨去されてしまった。家茂公のあと、将軍名代として実質的に幕府軍を率いることになって「大討込」などと弔い合戦に意気軒昂だった一橋慶喜公だが、小笠原から長州軍の強さを聞いてあっという間に弱気になられ、撤兵に向けて舵を切られ、八月二一日には征長も正式に中止になった。

孝明天皇が石清水八幡宮に戦勝祈願をさせたのに、梯子を外されたというのは、この時のことだ。

8月には私は薩摩にでかけたりもしたが、帰ってみると、長州の完勝となっていた。あっけないもので、長州藩としては、見事に関ケ原や禁門の変の悔しさを晴らすことになっていた。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと」はこちら
「龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)」はこちら
「龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い」はこちら
「龍馬の幕末日記㊹ 武器商人としての龍馬の仕事」はこちら
「龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話」はこちら
「龍馬の幕末日記㊻ 木戸孝允がついに長州から京都に向う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変」はこちら
「龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?」はこちら
「 龍馬の幕末日記㊾ 寺田屋で危機一髪をお龍に救われる」はこちら

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

過去の記事

ページの先頭に戻る↑