※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
■
長州での戦争は、私が薩摩と組んで流した武器のお陰もあって大勝利と言うことになり、ご機嫌な展開だったのだが、長崎の亀山社中では頭の痛い話が続いていた。
まず、寺田屋での襲撃事件の前夜である1月23日には、高知の饅頭屋のせがれで私と一緒に働いていた近藤長次郎が亀山社中の仲間に迫られて自刃させられていた。
近藤は「随分と才子に見える」と高杉晋作にも評されたように、いかにも才気走った男だった。だが、やや独断専行とその場しのぎのところがあって、それが桜島丸事件の紛糾の原因であったし、結果として、亀山社中の仕事には桜島丸を使えないことになり、そのことで責められていたらしい。
近藤の目論見では長州が買うが、使わない時期は亀山社中で使えると言うことだったのだが、長州の方からしたらそれでは藩内で通らない。のちのいろは丸の件でもそうだが、亀山社中や海援隊では、どこかに船を売った場合に、その運営を手伝うが、そのかわりに亀山社中の仕事にも引き続き使うというビジネス・モデルを使っていた。
亀山社中に金があるのはおかしいからイギリスのスパイをやってたのでないかという愚か者がいるが、そんな結構なパトロンがいるなら苦労しない。
しかし、現在の公務員でもそんなの許さないだろうが、幕末の藩でも、交渉担当者は丸め込めても、藩の管理部門に相談したら、馬鹿と言われたのだ。桜島丸もそういうことだった。
苦しくなった近藤は、伊藤博文らの洋行談に刺激を受け、また、グラバーの話だと彼の仕事ぶりに不安を持った小松帯刀の勧めもあってひそかに洋行しようとしたようだ。だが、グラバーの船の出港が一日遅れたところから、いったん船を下りて花街で宴を開いていたところを、沢村惣之丞らに踏み込まれ、「何事も社中に相談せずにことを行うべし。もし、一己の利のためにこの盟約に背く者あらば割腹すべし」という盟約に基づき自害を求められたのだという。
「術数有り余って誠を知らず」と手帳に書いたが、私が天下のために仕事をしているうちに、社中の管理がおろそかになってこんなことになったことは残念なことだった。
また、この滞在中に高松太郎に手紙を書き、池内蔵太を社中に入れるようにいった。
しかし、この池内も悲劇の死を遂げることになる。イギリス製の桜島丸がプロイセン製の練習船ワイルウェフ号を曳航して薩摩に向かっていたところ、強風のために危険となって綱を切り、ワイルウェフ号はマストも折れて漂流し、航海術が未熟なために五島沖に流されて座礁遭難し、池内蔵太ら12名が溺死したのだ。
池内は天誅組挙兵や禁門の変など壮烈な実戦をなんども勇敢に切り抜けてきたのに、戦いでもないところで死んでしまうとは悔しくてならなかった。
この6月から7月にかけては、長崎を舞台にいろいろな動きがあった。正確な日付は記憶していないのでまとめて記しておく。
大洲藩では戦乱に備えて鉄砲300丁を購入することにし、郡奉行の国島六左衛門を長崎に派遣した。郡奉行というのは農村支配の責任者だが、国島は砲術に詳しいというので特にこの仕事を命じられたらしい。
この国島に私は銃を買うより蒸気船を買う方が四国にある大洲藩としては大事なのではないかと力説したところ、国島もなるほどそうかも知れないという気になってくれて、薩摩の五代友厚があっせんしたオランダのボードイン号を購入することになった。
といっても、大洲藩でただちに蒸気船の運航ができる人員がいるわけでなく、亀山社中から派遣してくれということになった。ところが、この買い物は大洲藩では不評で、いろいろあったあげく国島は気の毒に自刃することになってしまった。結果論とはいえ、気の毒なことをしたものだ。
大浦慶というのは、このころの長崎ではちょっと有名な女傑で、茶を輸出する貿易で財をなしたのであるが、このころなにかと世話になった。彼女には、私だけでなく、陸奥宗光、大隈重信、松方正義なども同様だ。
■
「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと」はこちら
「龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)」はこちら
「龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い」はこちら
「龍馬の幕末日記㊹ 武器商人としての龍馬の仕事」はこちら
「龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話」はこちら
「龍馬の幕末日記㊻ 木戸孝允がついに長州から京都に向う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変」はこちら
「龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊾ 寺田屋で危機一髪をお龍に救われる」はこちら
「龍馬の幕末日記㊿ 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら