龍馬の幕末日記51:英国の援助などあったら亀山社中の経営に苦労しない

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

海援隊士集合写真( Wikipediaより)

長州での戦争は、私が薩摩と組んで流した武器のお陰もあって大勝利と言うことになり、ご機嫌な展開だったのだが、長崎の亀山社中では頭の痛い話が続いていた。

まず、寺田屋での襲撃事件の前夜である1月23日には、高知の饅頭屋のせがれで私と一緒に働いていた近藤長次郎が亀山社中の仲間に迫られて自刃させられていた。

近藤は「随分と才子に見える」と高杉晋作にも評されたように、いかにも才気走った男だった。だが、やや独断専行とその場しのぎのところがあって、それが桜島丸事件の紛糾の原因であったし、結果として、亀山社中の仕事には桜島丸を使えないことになり、そのことで責められていたらしい。

近藤の目論見では長州が買うが、使わない時期は亀山社中で使えると言うことだったのだが、長州の方からしたらそれでは藩内で通らない。のちのいろは丸の件でもそうだが、亀山社中や海援隊では、どこかに船を売った場合に、その運営を手伝うが、そのかわりに亀山社中の仕事にも引き続き使うというビジネス・モデルを使っていた。

亀山社中に金があるのはおかしいからイギリスのスパイをやってたのでないかという愚か者がいるが、そんな結構なパトロンがいるなら苦労しない。

しかし、現在の公務員でもそんなの許さないだろうが、幕末の藩でも、交渉担当者は丸め込めても、藩の管理部門に相談したら、馬鹿と言われたのだ。桜島丸もそういうことだった。

苦しくなった近藤は、伊藤博文らの洋行談に刺激を受け、また、グラバーの話だと彼の仕事ぶりに不安を持った小松帯刀の勧めもあってひそかに洋行しようとしたようだ。だが、グラバーの船の出港が一日遅れたところから、いったん船を下りて花街で宴を開いていたところを、沢村惣之丞らに踏み込まれ、「何事も社中に相談せずにことを行うべし。もし、一己の利のためにこの盟約に背く者あらば割腹すべし」という盟約に基づき自害を求められたのだという。

「術数有り余って誠を知らず」と手帳に書いたが、私が天下のために仕事をしているうちに、社中の管理がおろそかになってこんなことになったことは残念なことだった。

また、この滞在中に高松太郎に手紙を書き、池内蔵太を社中に入れるようにいった。

しかし、この池内も悲劇の死を遂げることになる。イギリス製の桜島丸がプロイセン製の練習船ワイルウェフ号を曳航して薩摩に向かっていたところ、強風のために危険となって綱を切り、ワイルウェフ号はマストも折れて漂流し、航海術が未熟なために五島沖に流されて座礁遭難し、池内蔵太ら12名が溺死したのだ。

池内は天誅組挙兵や禁門の変など壮烈な実戦をなんども勇敢に切り抜けてきたのに、戦いでもないところで死んでしまうとは悔しくてならなかった。

この6月から7月にかけては、長崎を舞台にいろいろな動きがあった。正確な日付は記憶していないのでまとめて記しておく。

大洲藩では戦乱に備えて鉄砲300丁を購入することにし、郡奉行の国島六左衛門を長崎に派遣した。郡奉行というのは農村支配の責任者だが、国島は砲術に詳しいというので特にこの仕事を命じられたらしい。

この国島に私は銃を買うより蒸気船を買う方が四国にある大洲藩としては大事なのではないかと力説したところ、国島もなるほどそうかも知れないという気になってくれて、薩摩の五代友厚があっせんしたオランダのボードイン号を購入することになった。

といっても、大洲藩でただちに蒸気船の運航ができる人員がいるわけでなく、亀山社中から派遣してくれということになった。ところが、この買い物は大洲藩では不評で、いろいろあったあげく国島は気の毒に自刃することになってしまった。結果論とはいえ、気の毒なことをしたものだ。

大浦慶というのは、このころの長崎ではちょっと有名な女傑で、茶を輸出する貿易で財をなしたのであるが、このころなにかと世話になった。彼女には、私だけでなく、陸奥宗光、大隈重信、松方正義なども同様だ。

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