龍馬の幕末日記53:土佐への望郷の気持ちを綴った手紙を書かされる

2021年02月24日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

山内容堂は、安政の大獄で隠居させられ、しかも蟄居させられた。しかし、桜田門外の変ののちに蟄居は解除され、国政の有力者となったが、殿様は実子でない豊範であって、藩内でも絶対権力者ではなかった。

山内容堂( Wikipediaより)

そこで、後藤象二郎ら公武合体派、武市半平太など勤王派、それに保守派のバランスをとり、それぞれを利用しなくてはならなかった。勤王派はうるさいが、しかし、彼らがいることは、国政での発言力確保には大いに役立っていたのであるから、利用価値はあったのだ。

ところが、8月18日の政変で、会津藩と薩摩藩が主導権を握ると、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握った。

また、大和では吉村虎太郎・那須信吾ら土佐の脱藩浪士らの天誅組の変が起きたが、失敗した。こうしたのを見て、9月に半平太ら勤王党幹部が逮捕された。半平太は投獄されたが、外との連絡などはできた。容堂公もまだ両にらみだったのだ。

半平太は、取調べでも上士に準じる白札という身分であるので拷問はされなかった。しかし、京都に残ったテロ実行犯の岡田以蔵が元治元年(1864年)4月に捕縛されて土佐に送還され、拷問に耐えかねて、天誅事件への関与を具体的に自白してしまったことで逮捕者が続出した。

これに対して、7月に安芸郡で郷士・清岡道之助らが挙兵したが鎮圧され、取り調べはますます厳しくなった。半平太の実弟・田内衛吉は拷問に耐えかねて服毒自殺。

武市半平太 獄中自画像 (Wikipediaより)

それでも、半平太らは容疑を否認し続けたが、慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、に、半平太は切腹を命じられた。岡田以蔵らは斬首された。

ところが、翌年の1月になると、薩長同盟が結ばれ、閏5月に将軍家茂が進発して開始された第二次征長戦争は、長州の勝利に終わった。半平太を早まって殺してしまったのが悔やまれた。容堂公も明治になってうわごとで「半平太すまん」と仰ったと聞く。

一方、容堂公は殖産興業に力を入れ、外国貿易の拡大を図るなどに努めていた。そうした文脈の中で1866年の7月に後藤象二郎が長崎へ派遣された。

後藤象二郎(出典:近世名士写真 其2、国会図書館より)

吉田東洋の甥である後藤象二郎は開成館貨殖局長崎出張所、通称で土佐商会というのを開いて、樟脳や鯨油など特産品の売り込みをしたり、艦船や武器の購入をしようとし、上海にまで足を伸ばしていた。

だが、蓄積がないところから始めてもなかなかうまくいかない。そこへ、私が土佐出身者も多く使いながら手広くやっていることを聞き、なんとかこれを利用できないかと思ったらしい。

そこで、土佐から派遣されて砲術の勉強に来ている溝渕広之丞が長州にも一緒に行くなど付き合いが続いていると聞いて、私の土佐についての気持ちを探るように頼んだらしいのである。

「竜馬がゆく」では、溝渕の長州行きなどの経緯がとばされているので分からなくなるが、溝渕とは日頃から付き合っていたのである。

私は土佐に対する思いを堰を切ったように溝渕に語ったのだが、彼は、それを書状の形にしてくれるように助言してくれた。もちろん、後藤らに見せるためである。そこで、私は、いつも乙女などに書いている崩した文章でなく、漢文調のものを書いて広之丞に渡した。

「先日お聞きいただいた私の願いのおおよその所を認めたのでご覧に入れたいと思います。私は次男に生まれ成長するまで兄に従っておりました。本土でぶらぶらしておりました頃に殿様のお計らいで幕府に請うて海軍を志し骨身を削って航海術を学び実践してきました。

才能もなく知識も浅く資材もないものの成功は簡単ではありませんでしたが、海軍のもとはできました。以上は溝渕様の知っておられるとおりです。ここ数年は東西を奔走しかつて見知った人と会っても通りすがりのような顔をしておりました。

人で父母の国を思わぬ人はありません。しかるに忍んで顧みなかったのは情のために道を外れ志を蹉躓をおそれたからです。志が成就しないままでどうして殿様に顔向けできるでしょうか。これがあえて国を離れて仕官せす労苦を重ねてきた理由です。

老兄は私のことを目をかけてくださっているので私の気持ちの概略をお伝えしますので、お察しください」

といったものだが、書いていて涙が止まらなかったことはいうまでもない。

Takacchi/写真AC

そして、この手紙の下書きを兄の権平にも送った。

こうして激動の一年が終わったのだが、この年の12月25日に孝明天皇が崩御された。このことが、また、歴史の歯車の回転を速めたのである。

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評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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