龍馬の幕末日記54:土佐藩のために働くことを承知する

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

坂本龍馬 (上野彦馬撮影) Wikipediaより

明治維新というと、その四月に年号が改元されて慶応四年が明治元年になった西暦1868年のことをいうが、大政奉還と王政復古がなされたのは、その前年である慶応3年のことである。

まず、この年の正月から2月にかけて、政局をめぐって起きたことをまとめると、京都では睦仁親王が天皇となられた。外祖父の中山忠能は尊王攘夷派に近い公家である明治天皇である。

これで、勤皇派の公家たちが徐々に復帰し、佐幕派にとってかわった。もともと中クラス以下の公家たちのほとんどは尊皇攘夷派なのだし、おまけに、新しい主上の叔父は、天誅組事件を起こしたあの中山忠光である。

西郷隆盛は徳川慶喜を牽制するため薩摩、土佐、宇和島、越前からなる「四侯会議」を実現させるために鹿児島で久光公を説得し、また、宇和島や土佐にもまわって伊達宗城公や山内容堂公を説得し、だいたいの同意を取り付けた。

横井小楠先生は松平春嶽侯に「国事12条」を提出したが、これがのちに私の船中八策や由利公正の五箇条のご誓文に大きな影響を与えることになる。

一英仏の動きも活発で、イギリス公使パークスが薩長への肩入れを強める一方、フランス公使ロッシュは慶喜にフランス型の中央集権国家や地方制度の詳細を説いた。

ロッシュは積極的に幕府接近策をとり、それに乗った筆頭が小栗忠順だったが、ロッシュの独断専行のきらいもあった。極東でイギリスと本気で張り合うほどの気がフランスにあったのでなかったのだが、とりあえず、慶喜公もロッシュの助言に影響されたし、フランスの軍服などを着て楽しんでおられた。

こうした様々な動きも、徐々に近代国家として日本を再編成していこうという機運が具体的なものになっていったという意味では、軌を一にしていたのである。

正月5日には中岡慎太郎が下関に到着し、高杉晋作を訪ねたあと、田中光顕、中島信行らと飲み交わしたところへ、私は訪問し、京都の情勢を聞いた。このあと九日に私は溝渕広之丞とともに長崎に向かい11日に着いた。

そして、いよいよ13日に、「清風亭」で後藤象二郎と会談した。溝渕と松井周助の斡旋である。

まず驚いたのは、私が気に入っているお元という18歳の芸妓を呼んでいたことで、一気になごやかな雰囲気で話に入れた。夜明けまで飲み明かしたのち社中に帰ってこんなことをいったらしい。

「土佐にもひとかどの人物が現れた。元々仇敵のはずだが、あえて過去のことを一言も言わず、これからの大局のことだけを話したのには感心した。これは面白いことになりそうで、7月か8月の頃には昔の長薩土のようにやっていけるかもしれんぞ」

私は済んだことを、ああだこうだということに神経と時間を使うより、これから大事なことを話すのが好きなのだが、そういう人は少ない。だが、後藤は私の過去のこともいわなかったし、また、自分のことについても弁解がましいことをねちねちと話すということもなかったから、「これは話せる男だ」と気に入ったのだ。

こののち、土佐の碩学である谷一族の干城もやってきた。もともと保守的な男で、後藤が長崎で公金で豪遊し勝手なことをしているのではないかと探りに来たようだが、逆に感化されて、帰国後は積極的に後藤を擁護することになるのである。

やはりこのころ、会津の神保修理と会う機会があった。私は高坂龍次郎という変名を使った。会津は固陋にして不開だが途中に寄ってきた肥後はもっとひどいなどという。横井先生も苦労されたわけだ。ともかく、会津にしてはものの分かった男だったが、それがゆえに、鳥羽伏見の戦いのあと自刃に追い込まれる。

私は写真家の上野彦馬のスタジオで皆様もよくご存じの有名な肖像写真を撮った。羽二重の羽織を着て演台にもたれているようなポーズのもので、私もとても気に入った写真だ。上野は我が国における写真術のパイオニアとして知られる。

私は2月10日に、お龍を長崎から下関に移した。長州戦争の終結により関門海峡の航行が保証されるようになり、長崎より地の利がよい下関の方が何かと活動に便利になってきたということもあったし、それに、海援隊の隊員たちとお龍がもうひとつうまくいってない感じもあったのも、私がこの引っ越しを決めるについて意識にあったかもしれない。

下関では、伊藤助太夫という商人の家の離れである「自然堂」を借りて預かってもらった。「竜馬がゆく」では、最後の京都行きの途中のことになっているが、このときというのが正しい。

このときに、生活費の負担などについて細々と話をしておいた。私は幕府や各藩との金のやりとりではずいぶんと荒っぽいこともしたが、商人との間では誠実に払うべきものは払う主義だった。そのへんは、実家が武士と商人の中間的存在だったことから持っていた倫理観がゆえだ。

2月には私の兄の権平と中岡慎太郎の父である源平のところに、「右は先年規律犯し、他国に罷りある趣き、これによって法に従い処断すべきところ、深くお考えになられるところがあり、御宥恕仰せるけられる」と二人の無断出国を許し、これまで通り国外で活動してよろしいという通知があった。

これがのちの人が「脱藩を許される」といっているものだ。繰り返しいうようだが、当時は「脱藩」などという言葉は正式には使われなかったのであるからそんな表現もこの通達にはなかった。

この措置には西郷隆盛が容堂公に頼んでくれたのも効いたのである。また、西郷は3月に土佐に赴き兄から刀剣をことづかって届けてくれた。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと」はこちら
「龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)」はこちら
「龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い」はこちら
「龍馬の幕末日記㊹ 武器商人としての龍馬の仕事」はこちら
「龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話」はこちら
「龍馬の幕末日記㊻ 木戸孝允がついに長州から京都に向う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変」はこちら
「龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊾ 寺田屋で危機一髪をお龍に救われる」はこちら
「龍馬の幕末日記㊿ 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記51 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記52: 会社の金で豪遊することこそサラリーマン武士道の鑑」はこちら
「龍馬の幕末日記53:土佐への望郷の気持ちを綴った手紙を書かされるはこちら