※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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明治維新というと、その四月に年号が改元されて慶応四年が明治元年になった西暦1868年のことをいうが、大政奉還と王政復古がなされたのは、その前年である慶応3年のことである。
まず、この年の正月から2月にかけて、政局をめぐって起きたことをまとめると、京都では睦仁親王が天皇となられた。外祖父の中山忠能は尊王攘夷派に近い公家である明治天皇である。
これで、勤皇派の公家たちが徐々に復帰し、佐幕派にとってかわった。もともと中クラス以下の公家たちのほとんどは尊皇攘夷派なのだし、おまけに、新しい主上の叔父は、天誅組事件を起こしたあの中山忠光である。
西郷隆盛は徳川慶喜を牽制するため薩摩、土佐、宇和島、越前からなる「四侯会議」を実現させるために鹿児島で久光公を説得し、また、宇和島や土佐にもまわって伊達宗城公や山内容堂公を説得し、だいたいの同意を取り付けた。
横井小楠先生は松平春嶽侯に「国事12条」を提出したが、これがのちに私の船中八策や由利公正の五箇条のご誓文に大きな影響を与えることになる。
一英仏の動きも活発で、イギリス公使パークスが薩長への肩入れを強める一方、フランス公使ロッシュは慶喜にフランス型の中央集権国家や地方制度の詳細を説いた。
ロッシュは積極的に幕府接近策をとり、それに乗った筆頭が小栗忠順だったが、ロッシュの独断専行のきらいもあった。極東でイギリスと本気で張り合うほどの気がフランスにあったのでなかったのだが、とりあえず、慶喜公もロッシュの助言に影響されたし、フランスの軍服などを着て楽しんでおられた。
こうした様々な動きも、徐々に近代国家として日本を再編成していこうという機運が具体的なものになっていったという意味では、軌を一にしていたのである。
正月5日には中岡慎太郎が下関に到着し、高杉晋作を訪ねたあと、田中光顕、中島信行らと飲み交わしたところへ、私は訪問し、京都の情勢を聞いた。このあと九日に私は溝渕広之丞とともに長崎に向かい11日に着いた。
そして、いよいよ13日に、「清風亭」で後藤象二郎と会談した。溝渕と松井周助の斡旋である。
まず驚いたのは、私が気に入っているお元という18歳の芸妓を呼んでいたことで、一気になごやかな雰囲気で話に入れた。夜明けまで飲み明かしたのち社中に帰ってこんなことをいったらしい。
「土佐にもひとかどの人物が現れた。元々仇敵のはずだが、あえて過去のことを一言も言わず、これからの大局のことだけを話したのには感心した。これは面白いことになりそうで、7月か8月の頃には昔の長薩土のようにやっていけるかもしれんぞ」
私は済んだことを、ああだこうだということに神経と時間を使うより、これから大事なことを話すのが好きなのだが、そういう人は少ない。だが、後藤は私の過去のこともいわなかったし、また、自分のことについても弁解がましいことをねちねちと話すということもなかったから、「これは話せる男だ」と気に入ったのだ。
こののち、土佐の碩学である谷一族の干城もやってきた。もともと保守的な男で、後藤が長崎で公金で豪遊し勝手なことをしているのではないかと探りに来たようだが、逆に感化されて、帰国後は積極的に後藤を擁護することになるのである。
やはりこのころ、会津の神保修理と会う機会があった。私は高坂龍次郎という変名を使った。会津は固陋にして不開だが途中に寄ってきた肥後はもっとひどいなどという。横井先生も苦労されたわけだ。ともかく、会津にしてはものの分かった男だったが、それがゆえに、鳥羽伏見の戦いのあと自刃に追い込まれる。
私は写真家の上野彦馬のスタジオで皆様もよくご存じの有名な肖像写真を撮った。羽二重の羽織を着て演台にもたれているようなポーズのもので、私もとても気に入った写真だ。上野は我が国における写真術のパイオニアとして知られる。
私は2月10日に、お龍を長崎から下関に移した。長州戦争の終結により関門海峡の航行が保証されるようになり、長崎より地の利がよい下関の方が何かと活動に便利になってきたということもあったし、それに、海援隊の隊員たちとお龍がもうひとつうまくいってない感じもあったのも、私がこの引っ越しを決めるについて意識にあったかもしれない。
下関では、伊藤助太夫という商人の家の離れである「自然堂」を借りて預かってもらった。「竜馬がゆく」では、最後の京都行きの途中のことになっているが、このときというのが正しい。
このときに、生活費の負担などについて細々と話をしておいた。私は幕府や各藩との金のやりとりではずいぶんと荒っぽいこともしたが、商人との間では誠実に払うべきものは払う主義だった。そのへんは、実家が武士と商人の中間的存在だったことから持っていた倫理観がゆえだ。
2月には私の兄の権平と中岡慎太郎の父である源平のところに、「右は先年規律犯し、他国に罷りある趣き、これによって法に従い処断すべきところ、深くお考えになられるところがあり、御宥恕仰せるけられる」と二人の無断出国を許し、これまで通り国外で活動してよろしいという通知があった。
これがのちの人が「脱藩を許される」といっているものだ。繰り返しいうようだが、当時は「脱藩」などという言葉は正式には使われなかったのであるからそんな表現もこの通達にはなかった。
この措置には西郷隆盛が容堂公に頼んでくれたのも効いたのである。また、西郷は3月に土佐に赴き兄から刀剣をことづかって届けてくれた。
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