※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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後藤象二郎との会談で、私が土佐藩の人間として行動できることになったわけだが、ここで、お世話になった薩摩がどうなっていたかを説明しておきたい。
薩摩における維新の立役者といえば西郷隆盛や大久保利通の名がまず出るが、「そうせい殿」といわれた長州の毛利敬親公と違い、薩摩の島津久光公は相当に聡明で誇り高く頑固で、自分の意見を持ち、また、それにこだわる殿様であった。
島津久光は斉彬より八歳年少である。母親は江戸の町人の娘であるお由羅だが、鹿児島で生まれそこで育った。はじめ種子島家の養子とされたが、やがて、重富島津家の婿養子となった。少年時代から聡明といわれ、(斉彬と違って)、伝統的な国学・漢学に傾倒した。
お由羅騒動にもかかわらず斉彬との関係は良好で、重臣として相談も受け重要な仕事を任されている。斉彬の死の少し前、勝海舟が咸臨丸で指宿を訪れたが、このとき斉彬は久光を紹介し、「若い頃から学問を好み、その見聞と記憶力の強さ、志操方正厳格なところも自分に勝っている」といったというが、人を見る目がある斉彬らしい人物評である。
お由羅騒動については、後年になって久光は、当時は騒動そのものがあったことを知らなかったといったらしい。俄に信じがたいことだが、関係者もできるだけ久光に傷がつかないように、本人には知らせないようにしていたということは、あり得ないわけでもない。
息子である忠義が藩主になったあとも、しばらくは後見となった斉興を押しのけることができなかったが、斉興死後は、有能な政治家として動き、「国父」として実権を握った。
政治的バランスのなかで、側近の小松帯刀をパイプ役として、大久保利通ら斉彬派中核だった精忠組の一部を取り込むことに成功し、「じごろ(田舎者)」と言ってはばからなかった西郷とは微妙な関係が続いたものの、彼なりに藩内の掌握に成功した。
そして、文久2(1862)年になって、久光は斉彬の意志を継いで公武合体を進めると称して上京する。このとき、西郷隆盛は中央政界に経験も知己もない久光がそんなことをするのは無理だと(失礼にも面前で言って)反対した。
ところが、西郷の予言は外れて、この久光の行動は大成功するのである。まず、伏見の寺田屋に集まった薩摩藩内勤王過激派を粛正したことで、朝廷内の疑念を払拭することに成功し、朝廷から藩兵の京洛駐屯を認めさせ、一橋慶喜の将軍後見職就任などを求めた勅書を獲得した。
島津久光は勅使大原重徳とともに江戸に下り、慶喜の将軍後見職、松平春獄の政治総裁職就任を実現させた。
ここに、井伊大老によって試みられた、幕府を真の意味での日本政府に生まれ返らせようと言う試みは最終的に挫折する。わずか千名の外様大名の部隊に入られただけで事実上のクーデターが成功するほど幕府は弱っていたのである。
こののち、慶喜らを中心に推進される路線は基本的には、「雄藩連合」を念頭に置いたものになる。小栗忠順に代表される「幕府絶対路線」は幕閣のなかではなお続くし、会津藩などは最後までそれで動くのだが、新しいリーダーである慶喜の考え方は、明らかにそれと一線を画したものであった。
島津久光の一行は江戸からの帰りに横浜で英国民間人とのトラブルから、生麦事件を起こす。それが、薩英戦争に発展するが、英国の強さを見たことで藩内保守派の転向を促し、そこそこ善戦したことから、結果として英国から一目置かれることになる。
斉彬と久光を比べると、知性においては甲乙つけがたいものがある。斉彬のカリスマ性は久光にはない。だが、久光はそれを厳しい統率力とバランス感覚の良さでカバーした。
藩外要人との交流や実際の外交経験はないが、兄である斉彬のしてきたことを冷静に観察し、意見も言ってきたわけであり、知識としては不足していなかったともいえる。
斉彬の側近だった西郷からあれこれいわれても、「兄貴のことは西郷などより俺が一番よく知っている」という気分だっただろう。それだからこそ、中央政界に乗り出すについても、十分に指導者としての自分に自信をもっていたし、太っ腹ではないが、根性は座っていた。
その久光が、結局のところ、少なくとも廃藩置県までは、主役の一人として政局を動かしていくのである。
新政府が発足してからは、西郷や大久保は家臣であるのとは別の立場になったから久光公をないがしろにするようなこともしたが、それまでは、あくまでも主役は久光公だったのである。
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