龍馬の幕末日記55:島津久光という人の素顔

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

島津久光 Wikipediaより

後藤象二郎との会談で、私が土佐藩の人間として行動できることになったわけだが、ここで、お世話になった薩摩がどうなっていたかを説明しておきたい。

薩摩における維新の立役者といえば西郷隆盛や大久保利通の名がまず出るが、「そうせい殿」といわれた長州の毛利敬親公と違い、薩摩の島津久光公は相当に聡明で誇り高く頑固で、自分の意見を持ち、また、それにこだわる殿様であった。

島津久光は斉彬より八歳年少である。母親は江戸の町人の娘であるお由羅だが、鹿児島で生まれそこで育った。はじめ種子島家の養子とされたが、やがて、重富島津家の婿養子となった。少年時代から聡明といわれ、(斉彬と違って)、伝統的な国学・漢学に傾倒した。

島津斉彬 Wikipediaより

お由羅騒動にもかかわらず斉彬との関係は良好で、重臣として相談も受け重要な仕事を任されている。斉彬の死の少し前、勝海舟が咸臨丸で指宿を訪れたが、このとき斉彬は久光を紹介し、「若い頃から学問を好み、その見聞と記憶力の強さ、志操方正厳格なところも自分に勝っている」といったというが、人を見る目がある斉彬らしい人物評である。

お由羅騒動については、後年になって久光は、当時は騒動そのものがあったことを知らなかったといったらしい。俄に信じがたいことだが、関係者もできるだけ久光に傷がつかないように、本人には知らせないようにしていたということは、あり得ないわけでもない。

息子である忠義が藩主になったあとも、しばらくは後見となった斉興を押しのけることができなかったが、斉興死後は、有能な政治家として動き、「国父」として実権を握った。

政治的バランスのなかで、側近の小松帯刀をパイプ役として、大久保利通ら斉彬派中核だった精忠組の一部を取り込むことに成功し、「じごろ(田舎者)」と言ってはばからなかった西郷とは微妙な関係が続いたものの、彼なりに藩内の掌握に成功した。

そして、文久2(1862)年になって、久光は斉彬の意志を継いで公武合体を進めると称して上京する。このとき、西郷隆盛は中央政界に経験も知己もない久光がそんなことをするのは無理だと(失礼にも面前で言って)反対した。

ところが、西郷の予言は外れて、この久光の行動は大成功するのである。まず、伏見の寺田屋に集まった薩摩藩内勤王過激派を粛正したことで、朝廷内の疑念を払拭することに成功し、朝廷から藩兵の京洛駐屯を認めさせ、一橋慶喜の将軍後見職就任などを求めた勅書を獲得した。

島津久光は勅使大原重徳とともに江戸に下り、慶喜の将軍後見職、松平春獄の政治総裁職就任を実現させた。

ここに、井伊大老によって試みられた、幕府を真の意味での日本政府に生まれ返らせようと言う試みは最終的に挫折する。わずか千名の外様大名の部隊に入られただけで事実上のクーデターが成功するほど幕府は弱っていたのである。

こののち、慶喜らを中心に推進される路線は基本的には、「雄藩連合」を念頭に置いたものになる。小栗忠順に代表される「幕府絶対路線」は幕閣のなかではなお続くし、会津藩などは最後までそれで動くのだが、新しいリーダーである慶喜の考え方は、明らかにそれと一線を画したものであった。

島津久光の一行は江戸からの帰りに横浜で英国民間人とのトラブルから、生麦事件を起こす。それが、薩英戦争に発展するが、英国の強さを見たことで藩内保守派の転向を促し、そこそこ善戦したことから、結果として英国から一目置かれることになる。

斉彬と久光を比べると、知性においては甲乙つけがたいものがある。斉彬のカリスマ性は久光にはない。だが、久光はそれを厳しい統率力とバランス感覚の良さでカバーした。

藩外要人との交流や実際の外交経験はないが、兄である斉彬のしてきたことを冷静に観察し、意見も言ってきたわけであり、知識としては不足していなかったともいえる。

斉彬の側近だった西郷からあれこれいわれても、「兄貴のことは西郷などより俺が一番よく知っている」という気分だっただろう。それだからこそ、中央政界に乗り出すについても、十分に指導者としての自分に自信をもっていたし、太っ腹ではないが、根性は座っていた。

その久光が、結局のところ、少なくとも廃藩置県までは、主役の一人として政局を動かしていくのである。

新政府が発足してからは、西郷や大久保は家臣であるのとは別の立場になったから久光公をないがしろにするようなこともしたが、それまでは、あくまでも主役は久光公だったのである。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと」はこちら
「龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)」はこちら
「龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い」はこちら
「龍馬の幕末日記㊹ 武器商人としての龍馬の仕事」はこちら
「龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話」はこちら
「龍馬の幕末日記㊻ 木戸孝允がついに長州から京都に向う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変」はこちら
「龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊾ 寺田屋で危機一髪をお龍に救われる」はこちら
「龍馬の幕末日記㊿ 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記51 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記52: 会社の金で豪遊することこそサラリーマン武士道の鑑」はこちら
「龍馬の幕末日記53:土佐への望郷の気持ちを綴った手紙を書かされるはこちら
「龍馬の幕末日記54:土佐藩のために働くことを承知する」はこちら