龍馬の幕末日記56:慶喜・久光・容堂という三人のにわか殿様の相性

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

島津久光( Wikipediaより)

久光公は禁門の変の直前である文久3年5月からから3年も鹿児島から動かれなかった。せっかく、8月18日の政変に協力したのに、一橋慶喜、松平容保・定敬兄弟のいわゆる「一会桑」が政局を壟断して面白くもなかったのである。

だが、西郷隆盛は久光公を出馬させて薩摩の主導権を発揮できるようにしたかったし、新将軍である慶喜公もなんとか久光公に上京してもらって協力を得ようとされた。

私も2月22日に三吉慎蔵に「このごろの幕府はえらく薩摩に媚びている」と書き送った。同じころ中岡も木戸に手紙を書いて、「決して公武合体論などに迷い千載一遇の皇運興復の大機を誤る拙策にはよもや出まいと思うが」と不安を漏らした

四侯はまず、彼らだけで集まって相談し、ついで、5月17日に二条城で将軍慶喜公と会談した。どうしたわけか、「竜馬がゆく」では四侯会議だけで終わって帰国したようなことになっており、慶喜公をまじえた会談が書かれていいないが、この五者会議は薩摩が倒幕に踏み切る決心をした重要な意味を持つ会議だったのだから、これを省略してはいけないだろう。

徳川慶喜(Wikipediaより)

慶喜公は得意の弁舌でとうとうと兵庫開港問題を早急に解決せねば国益に重大な支障を来すことを説明されたが、久光公はそれより長州を宥恕して国内の団結を取り戻すことが先決だろうと冷たく言い放たれた。

この会議は19日と21日にも開かれたが、容堂公は体調不良で出席されなかった。歯槽膿漏が悪化したのである。慶喜公は丁寧な言葉で話し、煙草や菓子を勧め、庭で記念の肖像写真を撮らせるというサービスぶりだったが、自分の主張には固執した。慶喜公は、他人の意見を取り入れて妥協するというのが全く出来ない人なのだ。

だが、誰もが慶喜公の誠意など信じなくなっていたし、とくに久光公にはいかなる媚びへつらいも無駄だった。もともと庶子で江戸で暮らした経験がまったくいちどもない久光公には、千代田城の常識は通用しなかったのである。

同じように本来は跡継ぎでなかった容堂公と、斉彬公の庶弟だった久光公の立場は似てるようだが、実は根本的に違った。容堂公は殿様にある日、突然の幸運でなられたが、その後は幕府との関係でも家中でも苦労が続いたから、用心深く、考えすぎなくらいにいろいろ気配りをされ、思い切ったことは結局のところあまりされなかった。

だが、久光公は父である斉興公や家老の調所広郷が彼を藩主にしようと画策したとはいえ、自分では何かしたわけでない。

兄の斉彬が藩主になったときには、少し難しい立場に追い込まれたが、斉彬はむしろこの弟の優秀さを正しく評価し、重臣のなかでまともなのは周防(久光のこと)だけとまでいってくれたし、その後もやんちゃな次男坊の地のままでやってきたのであるから、こちらも慶喜公と同様に相手の立場への配慮など全くしないのである。

結局、兵庫開港と長州宥恕を同時解決するという妥協案はなったが、雰囲気は悪かった。 そして、慶喜公はその二日後、有力公家衆を集めてこの二つの問題の膝詰め談判を行われた。そして、翌日の夜に摂政の二条斉敬公たちが根負けするまで議論を続け、とりあえす、兵庫開港について承知させてしまったのである。

これで、諸外国の慶喜公への評価は高まったのだが、薩長などの警戒心を高めてしまった。とくに、久光公にすれば、別に将軍になりたがっていたわけではないが、徳川家が有力諸侯のひとつとして朝議に加わるのはよいとしても、諸大名より格上の存在として君臨するのでは、なんのためにこんな諸侯会議をしているか分からない。

山内容堂( Wikipediaより)

ただ、久光公としては、長州宥恕が先決という意見を実現させることはできなかったが、越前、宇和島両公を味方につけ、病気として途中で離脱した容堂公も強引に仲間に引き込んだような形となり、慶喜公のもくろみとは違って、幕府に対する対抗勢力としてくっきりとした形で、その立場を明らかにされる機会になったのである。

つまり、慶喜公が家康公以来の強い将軍としての力をめざましく示されたが、逆にそれがやぶ蛇となって、久光公が倒幕に大きく傾かれることになった時期だった。

また、あとで説明するが、水面下では乾(板垣)退助が中心となって、土佐の急進派と薩摩との協力関係ができていった時期でもあった。そして、容堂公は早々に帰国されてしまった。「東山の土とならん」という最初の意気込みはどこへやらだった。

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