龍馬の幕末日記57:薩摩の亀山社中から土佐の海援隊にオーナー交代

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

海援隊 Wikipediaより

ところで、私の亀山社中は、薩摩の庇護の元から、土佐の支援を受けた海援隊へと模様替えすることになった。薩摩にとってもこの社中は金食い虫だったし、正直なところ、薩長同盟ができて直接対話が可能になれば、私の存在価値も小さくなってしまった。

前の年の11月あたりには、関門海峡を通る船をすべて臨検する一方で、下関を舞台に薩長で商社をつくり、そこの船は優先的に通過できるようにしようというプランを五代友厚や広沢兵助と計画したが、各地の商人から総スカンをくって諦めた。当たり前だが。

そうしたところに、土佐が海軍力の強化と交易をしたいので、社中を活用したいというのであれば、薩土両者の思惑が一致するところだった。

これと、中岡慎太郎が京都で創立する陸援隊への構想は3月に後藤象二郎と福岡孝悌のあいだで確認され、4月初めには長崎で「脱走罪を許し海援隊隊長を仰せつける」という辞令が「才谷楳太郎」あてに出された。

中岡慎太郎 Wikipediaより

このころ私は才谷という姓をよく使ったが、同じ一族で坂本は武士、才谷は商人の名という気分が私にもあったからで、ビジネスなら才谷でということだ。

この海援隊の規約は以下の5条からなる。

  1. 土佐及びその他の藩を脱した者、海外に対して関心のある者なら誰でも入隊可能。運送業、交易、開拓、相場への投機、土佐の応援等を行う。
  2. 隊の全ての権限は、隊長のもので背いた者は隊長が処断できる、
  3. 協力して仕事を行い、独断専行したり、徒党を組んで他の者を威圧しない、
  4. 隊内で政治や軍事、航海について勉強する、
  5. 隊の費用は先に挙げた業務によって自弁で調達する。足りなければ、隊長が土佐の出崎官(長崎出先)に相談し、不足分を貰う。陸援隊と海援隊を併せて天翔隊と呼ぶ。

これに基づき、土佐の経済部門出先である土佐商会の岩崎弥太郎が海援隊の財務を監督することになった。また、ここに「藩を脱した者」という表現があるが、これが、私自身が文書で「脱藩」に似た言葉を使った唯一の用例だ。

ここに開拓とあるが、このころ、鳥取藩出身の河田久馬がやってきて蝦夷地開発構想をもってきた。また、長府藩と竹島(現在の鬱陵島)を開発しようという話も持ち上がった。鬱陵島は朝鮮王国の領土だが、このころは、おおらかなものだ。なにしろ、幕府も薩摩藩の野望をそらすために、朝鮮か台湾でも征服させたらなどという議論をしていたくらいなのだ。

蝦夷についてもいずれ私自身が移住しようというくらいの気持ちがあり、お龍にも蝦夷の言葉をならわしたり、蝦夷では源義経が人気があるというので、笹りんどうの紋がついた陣幕を用意したりしたこともあった。

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