龍馬の幕末日記60:「船中八策」を書いた経緯

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

後藤象二郎 Wikipediaより

5月に京都で行われた4侯会議では、すぐれた補佐役を得なかったことから、容堂公はいささか惨めなことになってしまわれた。公はそこのところを初めから心配され、夕顔丸を差し向けて後藤象二郎にいそぎ上京するように指示されたのだが、いろは丸問題が紛糾していてすぐには動けなかったのである。

だが、月末にはいろは丸騒動もなんとか収まったので、後藤はいそぎ京を目指した。そのときに、私にもついてこないかということになり、同行することになった。もとより、この国をいよいよ洗濯する仕事に参加できそうなのだから、胸が高まる思いであった。

この船上で私が後藤に提案したのが、いわゆる「船中八策」である。

といっても、大政奉還論、つまり、徳川から朝廷に政権をいったん返し、諸侯などの意見を幅広く聞きながら政治を行おうという考えは、幕府でも大久保一翁が早くから唱えていたし、横井小楠は文久2年に松平春嶽公が政事総裁職に就任されたときに「国是七条」を進言し、春嶽公もこうした意見に賛成されていた。また、将軍を返上すると言うだけなら、攘夷の要求にたまりかねた家茂公が、「それなら征夷大将軍など返上します」と開き直られ慰留されたこともあったのである。

大政奉還ののちに、徳川宗家がどういう立場となるのかについては、いろんな考えがあったが、その大枠については当然に考慮すべき選択のひとつとして広く認められていたのであって、私の提案に独創性はなかった。

もちろん、多くの大名にとっては幕府がなくなるなど思いもしないことだったし、同じ幕閣でも江戸と京都・大坂にいるものでは大きなギャップがあった。とくに旗本のなかには、朝廷なにするものぞという者も多かった。

江戸時代前期でも新井白石のように「天皇家は山城の小領主」とばかりにいう者もいたし、現在の幕藩体制に無理があると言うことは分かっても、三河以来の直参であることだけが自慢の小栗忠順のように、徳川家を中心に中央集権国家を作ればいいという発想の者もいた。

だが、外様大名は朝廷になら権限や領地を差し出すことは納得しても、徳川のために差し出す理由など持たなかったし、徳川家でも上に行けば行くほど皇室を重んじる気持ちが強く、松平定信公なども将軍家斉公に「60余州は主上からの預かりもの」と諭されていたのである。

そして、何よりも水戸家出身の慶喜公自身が幕府と朝廷が争えば京都に付けというように子供の時から教え込まれていたのである。そういう意味で、慶喜公やレベルの高い教養を持った大名にとって、江戸や東国の一般の武士たちが感じたほど大政奉還は大胆な発想ではなかったのである。

土佐は、関ヶ原での負け組だった薩摩や長州とはもともと立場が違った。しかも、このころ政権を担っていた上士たちにとって、吉田東洋を暗殺した尊皇攘夷派には恨みもあったから、いまさら倒幕に与せなかった一方で、尊皇の気持ちは強かったのだから、大政奉還というかたちを通じて勤皇の筋が通せて、しかも、徳川も救えるなら一番好都合だというのは、最初からわかりきっていたことである。

ただ、もう少し緻密にどのような提案をすればいいのかが問題だったのである。

そこで、私は後藤やさらには容堂公が担ぐべき提案としてはこんなところだろうという知恵を出したのであって、私自身が倒幕に否定的だったというのではない。

もともと、長州が幕府に武力で抵抗するのを助け、生活の本拠を長州の下関に置き、あとで書くように、土佐のためにライフル銃を無断で買い込み、場合によっては慶喜公を京都市中で襲撃することを計画すらしたのであるから、そこは明らかだろう。だいたい武器商人である私を平和主義者だというのは現代人の願望だ。

逆に、大政奉還という提案を持って奔走した主役はあくまでも後藤象二郎である。私の方は英国人船員を海援隊員が殺したという疑いをかけられたイカルス号事件のためにまたもやずいぶんと時間を取られてしまったのだ。

だが、なんとか、慶喜公の決断によって大政奉還が現実のものとなったときには、京都にいてその感激をリアルタイムで味わうことができたのである。また、お忍びでだが、土佐に帰国できるという僥倖もあった。

それでは、私の生涯のクライマックスとなったこの数ヶ月を物語っていきたい。

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