龍馬の幕末日記62:龍馬がイギリス公使から虐められる

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

ハリー・パークス Wikipediaより

このころ、私の方では、大極丸事件とイカルス号事件というやっかいな事件が起きていた。大極丸の方は海援隊が五島沖で沈没したワイルフェル号の代わりということで借りていた船だが、この船の水夫が神戸で殺人事件を起こしてしまった。

とくに政治的な背景のない事件だったが、薩摩の旗を掲げていたことから7月25日に西郷隆盛に詫びを入れた。

それに対してイカルス号事件はイギリスから散々嫌がらせされることになり、まったく困ってしまった。私がイギリスとつるんでいるなんていう幼稚な疑いは大間違いだという証拠にはなるかもしれない。

7月24日になって英国公使パークスが大坂へやってきて、老中板倉勝静に土佐の者がイカルス号という船の乗組員2人を長崎で殺したので徹底究明しろとねじ込んできたのである。

7月6日の深夜に長崎の花街である丸山界隈でフォードとホッチングスという2人の水夫が何者かに殺害されたというのである。2人は泥酔して路上で寝込んでいたので、外国人ガイドの岩助が遊女屋の軒下に移してやったのだが、白木綿筒袖の武士の一団が現れ、そのうちの一人がこの2人の英国人を殺してしまい、この着物が海援隊のものと似ていたというのである。

14日になって新潟視察から戻ってきたパークスは、この事件の直後に海援隊の横笛という帆船と土佐藩の南海という艦船が出港し、しばらくして横笛だけが戻ってきたといい、下手人を港外で南海に乗り換えさせて逃亡させたのに違いないと長崎奉行所に抗議したのである。

長崎奉行所ではしかたなしに横笛の船長佐佐木栄らを呼び出したが、彼らは容疑を否定しただけでなく、出港差し止めを無視して鹿児島に出港してしまった。そこでパークスは大坂で板倉に猛抗議した。板倉は若年寄永井尚志に土佐藩の京都留守居を呼び出させて、事件を伝え、パークスが土佐に乗り込むと息巻いているという。

留守居役の佐佐木高行は根拠のない疑いと断ったが、結局、板倉の立場にも配慮して土佐での調査を受け入れた。このとき、慶喜公はこれが薩英戦争のようなことにならないように穏便に解決するように望まれ、越前の春嶽公にもそのむね頼まれたので、春嶽公は容堂公あてに書簡を書かれ、これを私に託された。

私が京都から神戸に走って佐佐木にこの手紙を渡そうとして三邦丸に乗船したところ、三邦丸はそのまま出帆してしまった。この結果、私ははからずも5年ぶりに故郷の土佐に至ったのである。8月2日のことだ。

土佐には幕府の査問団を乗せた「回天」とパークスやサトウが乗った「バジリスク号」も一緒に着き須崎港に入った。交渉では後藤らが冷静な対応をして、証拠があがれば責任を持って処罰するとしたので、その先は長崎に舞台が移されることとなり、佐佐木高之が担当することになった。

この交渉中、私は須崎に停泊していた夕顔丸に閉じこめられた。脱走は一応許されたとはいえ、吉田東洋暗殺に関与したと疑われたことのある私をつけねらうものもあるかもしれないということで、上陸は差し控えた方がよいといわれたのである。しかたなしに、京都の中岡慎太郎や兄の権平に手紙など書いて過ごした。

権平への手紙では顛末を知らせるとともに、家宝の無銘の「了戒」という剣をねだり、そのかわりになんでも送るが、とりあえず手持ちの時計を添えると書いた。

1週間以上に及ぶ滞在のあとパークスは8日に横浜に向かったが、サトウは長崎にまわることとなり、その前に容堂公に拝謁したが、容堂公自らが英国の政治制度について理解を深めるまたとない機会になった。

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