龍馬の幕末日記63:イカルス号事件と岩崎弥太郎

八幡 和郎

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

土佐に寄港したものの上陸はできないまま、長崎に向かった。途中、下関に立ち寄り、大坂屋という料亭でおおいに遊興した。このときに佐佐木にお龍を紹介したが、佐佐木は「有名な美人だが、賢夫人かどうかは知らず、善悪ともになしかねなさそうだ」と失礼な感想を言ったそうだ。

お龍こと晩年の楢崎龍 Wikipediaより

イカルス号事件の捜査の方は、南海は事件の翌日の午後10時まで出港していないことが明らかとなり、花月楼という料亭で飲んでたという横笛の乗組員のアリバイも大筋では立証され、真犯人が誰かはともかく、英国側の主張の論拠が崩れた。

奉行所が無罪であるとの決定をしたのは9月10日のことだったが、まったく大事な時期に無駄な時間を過ごしたものだ。

ちなみに、犯人は福岡の金子才助という者で、事件ののちにすぐ自刃し、さっさと筑前で葬儀をさせて闇に葬っていたことが、明治になって明らかになった。

サトウはむなしい抵抗を続けて重箱の隅をつつくような質問をしたので、大声で笑ってやった。

「才谷氏は我々の言い分を馬鹿にして、我々の出した質問に声を立てて笑ったのでしかりつけた。そうしたところ、彼は悪魔のような恐ろしい顔つきになり黙りこくってしまった」といったことをこの著名な英国人外交官は書き残した。

残念ながら、彼とは目指すところは似ていたはずなのだが、互いに性が合わなかったようである。

また、このとき、横笛丸が事件直後に奉行所の出港停止の命令を無視して出港したことにつき、土佐商会の岩崎弥太郎の連絡ミスのようなことでおさめた。岩崎としては憤懣やるかたないところだったが、さらに、岩崎を怒らせるできごとがあった。

岩崎弥太郎(Wikipediaより)

無罪の評決があった翌日に、土佐商会の二人の社員が、諏訪神社の御輿見物に来て丸山の遊女に絡んでいたアメリカ人とイギリス人ともめ事を起こし、けがさせてしまったのである。彼らを岩崎は逃して事件をもみ消そうとしたが、私はイカルス号事件のあとでもあり、きちんと奉行所に出頭するべきだといって納得させた。

この結果、土佐の信用はあがったのだが、岩崎にはいつも私の都合で貧乏くじをひかされるという思いが残った。

岩崎には商売でも迷惑のかけっぱなしだった。海援隊は土佐以外の藩の交易を請け負うことをめざしていたが、交渉に成功したのは丹後の田辺藩とであった。田辺とは現在の舞鶴のことで、明治になってから、和歌山の田辺と同じでは混同するというので、舞鶴に改名させられたのである。

何度も書いているように、江戸時代には「○○藩」という呼び名はしなかったので、同じ名の城下町がいくつあろうがよかったのだが、明治になって正式名称になったのでこういうことになったのだ。

この取引についてさしあたって資金が不足した田辺藩に500両を用立てたが、これも土佐商会から出た資金だった。

このときに、長府藩士の三吉慎蔵にも手紙を書いて、「薩摩は戦う覚悟を固めた。後藤もまもなく上京するし、私も長崎の件がすめば京都に戻る。海戦になれば、長州、長府、薩摩、土佐の軍艦を集め協力して戦わねば幕府海軍に敵うまい」とも書いた。

ともかく、平成や令和のひとたちは、私が幕府とか会津とかいう連中に甘く、倒幕派とは一線を画していたなどというデマをでっち上げるので困る。

私が倒幕回避論者でなかったことはこの手紙からも分かってもらえるだろうし、成り行きによっては、京都の責任者をすぐ妥協に傾く後藤から乾に変える必要があるかもしれないという意見すら持っていたのである。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと」はこちら
「龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)」はこちら
「龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い」はこちら
「龍馬の幕末日記㊹ 武器商人としての龍馬の仕事」はこちら
「龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話」はこちら
「龍馬の幕末日記㊻ 木戸孝允がついに長州から京都に向う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変」はこちら
「龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊾ 寺田屋で危機一髪をお龍に救われる」はこちら
「龍馬の幕末日記㊿ 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記51 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記52: 会社の金で豪遊することこそサラリーマン武士道の鑑」はこちら
「龍馬の幕末日記53:土佐への望郷の気持ちを綴った手紙を書かされるはこちら
「龍馬の幕末日記54:土佐藩のために働くことを承知する」はこちら
「龍馬の幕末日記55:島津久光という人の素顔」はこちら
「龍馬の幕末日記56:慶喜・久光・容堂という三人のにわか殿様の相性」はこちら
「龍馬の幕末日記57:薩摩の亀山社中から土佐の海援隊にオーナー交代」はこちら
「龍馬の幕末日記58:いろは丸事件で海援隊は経営危機に」はこちら
「龍馬の幕末日記59:姉の乙女に変節を叱られる」はこちら
「龍馬の幕末日記60:「船中八策」を書いた経緯」はこちら
「龍馬の幕末日記61:船中八策は龍馬が書いたものではない」はこちら
「龍馬の幕末日記62:龍馬がイギリス公使から虐められる」はこちら