※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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土佐に寄港したものの上陸はできないまま、長崎に向かった。途中、下関に立ち寄り、大坂屋という料亭でおおいに遊興した。このときに佐佐木にお龍を紹介したが、佐佐木は「有名な美人だが、賢夫人かどうかは知らず、善悪ともになしかねなさそうだ」と失礼な感想を言ったそうだ。
イカルス号事件の捜査の方は、南海は事件の翌日の午後10時まで出港していないことが明らかとなり、花月楼という料亭で飲んでたという横笛の乗組員のアリバイも大筋では立証され、真犯人が誰かはともかく、英国側の主張の論拠が崩れた。
奉行所が無罪であるとの決定をしたのは9月10日のことだったが、まったく大事な時期に無駄な時間を過ごしたものだ。
ちなみに、犯人は福岡の金子才助という者で、事件ののちにすぐ自刃し、さっさと筑前で葬儀をさせて闇に葬っていたことが、明治になって明らかになった。
サトウはむなしい抵抗を続けて重箱の隅をつつくような質問をしたので、大声で笑ってやった。
「才谷氏は我々の言い分を馬鹿にして、我々の出した質問に声を立てて笑ったのでしかりつけた。そうしたところ、彼は悪魔のような恐ろしい顔つきになり黙りこくってしまった」といったことをこの著名な英国人外交官は書き残した。
残念ながら、彼とは目指すところは似ていたはずなのだが、互いに性が合わなかったようである。
また、このとき、横笛丸が事件直後に奉行所の出港停止の命令を無視して出港したことにつき、土佐商会の岩崎弥太郎の連絡ミスのようなことでおさめた。岩崎としては憤懣やるかたないところだったが、さらに、岩崎を怒らせるできごとがあった。
無罪の評決があった翌日に、土佐商会の二人の社員が、諏訪神社の御輿見物に来て丸山の遊女に絡んでいたアメリカ人とイギリス人ともめ事を起こし、けがさせてしまったのである。彼らを岩崎は逃して事件をもみ消そうとしたが、私はイカルス号事件のあとでもあり、きちんと奉行所に出頭するべきだといって納得させた。
この結果、土佐の信用はあがったのだが、岩崎にはいつも私の都合で貧乏くじをひかされるという思いが残った。
岩崎には商売でも迷惑のかけっぱなしだった。海援隊は土佐以外の藩の交易を請け負うことをめざしていたが、交渉に成功したのは丹後の田辺藩とであった。田辺とは現在の舞鶴のことで、明治になってから、和歌山の田辺と同じでは混同するというので、舞鶴に改名させられたのである。
何度も書いているように、江戸時代には「○○藩」という呼び名はしなかったので、同じ名の城下町がいくつあろうがよかったのだが、明治になって正式名称になったのでこういうことになったのだ。
この取引についてさしあたって資金が不足した田辺藩に500両を用立てたが、これも土佐商会から出た資金だった。
このときに、長府藩士の三吉慎蔵にも手紙を書いて、「薩摩は戦う覚悟を固めた。後藤もまもなく上京するし、私も長崎の件がすめば京都に戻る。海戦になれば、長州、長府、薩摩、土佐の軍艦を集め協力して戦わねば幕府海軍に敵うまい」とも書いた。
ともかく、平成や令和のひとたちは、私が幕府とか会津とかいう連中に甘く、倒幕派とは一線を画していたなどというデマをでっち上げるので困る。
私が倒幕回避論者でなかったことはこの手紙からも分かってもらえるだろうし、成り行きによっては、京都の責任者をすぐ妥協に傾く後藤から乾に変える必要があるかもしれないという意見すら持っていたのである。
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