龍馬の幕末日記64:慶喜公の説得と下関でのお龍との別れ

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

長崎からアーネスト・サトウや佐佐木高之とともに私が夕顔丸で須崎を離れたのは8月12日だった。なにしろ、ひとつ間違えば薩英戦争の二の舞だった。

大政奉還の建白をどうするなどという議論は吹っ飛んでいたのいたのだが、いちおう、イカルス号事件の交渉の舞台が長崎に移ったことで、議論が再開された。イギリスがわれわれの見方だとか、イギリスに踊らされて倒幕をしたとか寝ぼけたことをいっている令和の日本人にはこの顛末など知って欲しい。彼らは邪魔ばかりしていたのだ。

山内容堂( Wikipediaより)

高知では散田の屋敷にあった容堂公が現藩主の豊範公を呼び出され、「今日の天下の形勢をそのまま因循すれば、亡国のもとである。しかれば、慶喜公には非常の英断をいただかねばならず、政令は朝廷から出し、外国との交際は万国公法に則り、兵食を充実させ、学校を起こし、貴賤を問わずに賢明の士を登用すべきである。我々はこの趣旨をもって建白し後藤象二郎と寺村左膳へ委任しよう」と宣言された。

ところが、容堂公は兵を上京させるのは「しばらくまて」とおっしゃったのである。中岡慎太郎と乾退助がだめなら腹を切るとまで大見得を切り、後藤象二郎が7月2日に京都を離れるときに芸州の船越洋之助に20日くらいで兵とともに戻ってくるといったにもかかわらずである。容堂公が山内家の立場として幕府に恩義を感じていると言うこともあるが、例の織田信長になりきれずに毛利元就で留まったと揶揄される慎重癖が出たのである。

ようやく後藤が空蝉丸で大阪に向かうことになったのは8月25日だが、そこに台風が襲来した。ようやく好天が戻ったのは9月1日で2日の朝に大坂屋敷に入った。しばらくして後藤が心斎橋あたりを散策していると相撲見物帰りの西郷隆盛と出くわした。

西郷隆盛 Wikipediaより

そこで、翌朝、薩摩屋敷に出向いて状況を説明したが、兵はいかほど連れてきたかと聞かれても、「進発は未だだが、何かあればいつでも出せるようにした」と訳の分からないことしかいえない。9月7日に小松帯刀から京都の薩摩屋敷に呼び出され、「容堂公は誠心誠意で建白せよ。敷き刀(いざとなったら武力に訴えること)はいけないといっている」と白状せざるをえなかった。

このころ、島津久光公は帰国を予定されていたが、小松帯刀らはその代理だと称して久光公の三男で藩主になる前の久光がかつて養子として当主になっていた島津分家重富家の島津備後(珍彦)に兵1000を率いて上京させていた。

備後が京都に入ったのが11日、久光公が大坂から鹿児島に発ったのは15日である。一方、大久保利通は長州へ急行し、18日には毛利敬親公の御前で挙兵の決意を述べ、薩長出兵密約を成立させた。

私が芸州から借り上げた震天丸にハットマン協会から急遽購入した新式のライフル銃1300丁を満載し、岡内俊太郎、戸田雅楽、千屋寅之助、中島信行らと下関に向かった。20日には下関についたが、ちょうど、大久保が乗った丙丑丸が出港するのと入れ違いだった。伊藤博文から薩長芸で出兵することを決めたと聞かされ、千屋寅之助と陸奥宗光にライフル銃200丁を持たせて大坂に直行させる手はずにした。

大政奉還を建白するとしても、いざとなれば武力倒幕も辞さずということに七月に京都を出たときにはなっていたので、我々の仲間だけでも武力行使できるように武器を用意しておく必要があると思ったのだ。

京都ではこの日に、永井尚志から後藤が大政奉還の建白書を催促されていた。また、永井はこのときに、近藤勇を後藤に紹介した。後藤は背筋が寒くなったはずだが、持ち前のふてぶてしさで、「全国的な有名政治家の一人である近藤さんに会えて光栄」などといったものだから、近藤はころりと魅了されてしまった。

このことで、後藤は新撰組による暗殺のおそれから少し解放されたのであるが、喜んだ近藤が後藤を訪ねて交友を求めてきたのには閉口して、仮病で逃げたと聞いた。

このとき、下関では伊藤宅に二泊してお龍とともにすごしたが、これがお龍との別れとなった。

徳川慶喜 Wikipediaより

本当の意味で独創的なものではないが、後藤が容堂公の意見とし、薩摩にとって受け入れ可能で、新しもの好きな慶喜公が喜びそうで、臆病な諸大名も説得できるだろうと練りに練ったものだった。そこで、京都についた後藤は土佐に帰って容堂公を説得する前に、まずは、各藩の意向を片端から打診してみた。

まずは、6月22日には京都三本木の料亭吉田屋で薩摩藩重役との懇談が開かれた。薩摩からは小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が、土佐からは後藤をはじめ、福岡孝悌、真辺栄三郎、寺村左善が出席し、私と中岡慎太郎も陪席させてもらった。

真辺、寺村はいずれも上士出身の幹部で、真辺は吉田東洋派の重鎮。寺村は鳥羽伏見の戦いで乾退助が参戦したことを批判して追放された人物だ。

ここで後藤は大政奉還と公議政体を内容とする薩土盟約を提案し薩摩側の了解を得た。福岡は広島の辻将曹の賛同を得て薩土芸の盟約ができた。中岡は目付の毛利荒次郎とともに鳥取や岡山の賛同を得た。

そして、後藤は西郷らが設けた送別会を経て7月4日に土佐の容堂公に報告するために京都を出立した。私は大坂に留まったが、田中光顕は太宰府へ、村田新八は長州へ赴き、京都での新情勢を伝えた。

ただし、こうして後藤の大政奉還論は順調に展開した裏で、その一ヶ月前の6月19日、土佐の上士のなかで対幕府強硬派の乾退助や陸援隊の中岡が密かに西郷らと会って、武力倒幕に土佐も引き込むことを約束して帰っていたのである。

西郷らは土佐のふたつの派閥のいずれもと接触し、使い分けようとしていたのである。

私にしても、後藤が大政奉還の線で動くことに反対ではないが、武力倒幕路線が間違っているなどとは思ったことはない。6月25日には岩倉の寓居に岩倉具視公を訪ねて、結局は倒幕に向かわざるを得ないだろうと説かれて、それもそうかと納得もしていた。

そのあたりは勝海舟先生あたりの影響を受けたからかも知れないが、初めからこうでなくてはということでことがうまくいくとは限らず、いろんな人がそれぞれの思いで動いていくなかで収めどころがみつかると思う思考方法を取るたちなのだ。

 それに、中岡のように乾と西郷の会談にも、後藤らと西郷を初めとする薩摩重役との宴席のどちらにも同席していたものもいるし、乾の動きは容堂公や京都の土佐屋敷の重役も把握していたのだから、それぞれの秘密が完全に守られるなどありえないことないし、後藤にしても容堂公よりは軍事的圧力の必要性を主張していたのである。

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