※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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9月22日に下関を出港した震天丸は、翌日には土佐の浦戸に入港した。今回の用件は薩長などの動きを伝え土佐が出兵することを促すことと、土佐での購入を期待して買ったライフル銃を売りつけることだった。
ここで、私の片腕として活躍してくれたのが、岡内俊太郎である。高知城下潮江村の出身で、監察を担当する横目職であったが、海援隊に入った。
イカルス号問題やライフル銃1300挺の購入に活躍してくれたが、浦戸に入港したのち、政庁関係者との折衝の橋渡しをしてくれた。維新後は刑法官として活躍し、高等法院陪席判事、元老院議官、貴族院議員を歴任した。
ともかく、脱走(のちに脱藩といわれるようになったが当時の用語法ではない)は許されたにせよ、高知の城下にいきなり姿を現せられるような立場ではない。
まずは、継母伊与の最初の嫁ぎ先との関係で交友があった御船頭中城亀五郎の屋敷に潜伏して、岡内を参政の中では話が分かりそうな渡辺弥久馬のもとに木戸孝允からの手紙も持たせて走らせた。
渡辺はかつて、吉田東洋の側近で、明治になってから、斉藤利行と改名し参議や元老院議官をつとめた男だ。「竜馬がゆく」で出てくるように桂浜で呑気に感慨にふけっているなどできるはずがない緊迫した時間だった。
渡辺は奉行とも相談して私にすぐ会うよう段取りを付け、松ヶ鼻の茶店で、由比猪内、本山只一郎、西野彦四郎と会った。こちらは、俊太郎だけを連れて行った。
話し合いはすぐにはつかなかったが、容堂公のところで豊範公も出席して御前会議が開かれ、ライフルの買い上げは了承、派兵は本格的にはしないが少し兵を動かして準備万端を整えようとなった。
完全に満足できるものではなかったが、容堂公も私の働きを評価しようという気にはなったらしく、金50両を拝領することになった。
このときに、容堂公に拝謁したという記録が、宇佐の真覚寺という寺の住職が日記に噂として書き残しているが、もし、そんなことがあれば、お喋りの私が吹聴しないはずがない。
残念ながら、容堂公にはついに拝謁の機会がないまま終わってしまった。
それにといってはなんだが、私は容堂公に会っても気に入られなかったと思う。私がうまくやれた貴人は、だいたい、おおらかなところがあって私の稚気のようなものを受け止めてくれるタイプであるが、容堂公は豪快だがおおらかではない。
さらに容堂公は、インテリタイプが好きだ。ご承知の通り、私はその方面はまったく駄目なのだ。
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