※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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山内容堂公に私は会ったことがないということは、申し上げたとおりだ。しかし、こんなふうに、土佐としての意見調整にとまどったことと、藩首脳部が私に好意的であることがよく知られる状況になったので、身の危険はだいぶ感じられないようになった。
そこで、おおっぴらではないが、懐かしい御城下上町の坂本家に立ち寄り宿泊することができたのである。
文久2年の「脱走」から、なんんと、5年ぶりのことであった。このとき三条実美公の側近である戸田雅楽(のちの尾崎三良)も連れて行った。そのときの様子がこまかに伝えられているのは、彼があちこちでいろいろ書いてくれたお陰だ。
容堂公からいただいた50両のうち20両は姉の乙女にやり、10両を南町に住んでいた乳母など何人かにくれてやった。また、大石弥太郎などかつての同志の何人かと会うことができた。
だが、土佐藩としての方針が決まったとなったら、京へ急いで戻ってやることがある。しかし、震天丸が故障して動かないので胡蝶丸で大阪に着いたのは10月6日のことだった。
私が下関や高知にいたころ、すでに京都では慶喜公が大政奉還の建白を受け入れる腹を固められていた。9月20日には、後藤象二郎が若年寄永井尚志から建白書提出の催促を受けた。
そこで、後藤は西郷に相談するが、西郷は機嫌が悪い。24日に予定していた建白は延期したが、今度は、芸州が武力倒幕から少し後退して建白に賛同した。
結局、28日には薩摩藩家老の小松帯刀が建白に異論ないということにしてくれた。本当に物わかりのいい男だった。
こうして、ようやく10月3日に、後藤が老中板倉勝静(備中松山藩主で山田方谷の殿様だ)に「大政奉還建白書」を提出した。その文章の仕上げをしたのは、海援隊員の長岡謙吉で
ある。
京都に私が着いたのは九日で、河原町三条下るの材木商「酢屋」に落ち着いた。主人は中川嘉兵衛といって高瀬川を通じての材木運送を独占していた男だ。
翌日には北白川の土佐屋敷別館にあった陸援隊に中岡慎太郎を訪ねて、土壇場で行かなかったときのために、武力蜂起に向けて準備を怠りなくした。
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