龍馬の幕末日記68:大政奉還ののち西郷らは薩摩に向かう

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

西郷隆盛 Wikipediaより

大政奉還が土佐からの提案に基づき実現はしたものの、問題は新しい政体への準備が何もできていないことだった。うろたえた摂政二条斉敬公はとりあえず幕府にそのまま政務を続けるように指示するとともに、島津久光公や山内容堂公に上京を要請した。

一方、王政復古をめざす天皇の外祖父である中山忠能らが差配して薩長に「倒幕の密勅」を出していた。最大の目的は、薩長などに藩主が大兵力を率いて上洛して欲しいということである。

10月17日に、西郷、大久保、小松らは鹿児島へ出発した。広島藩の艦船を使えたので21日には三田尻に入り、27日には鹿児島に着いて藩主茂久の上洛を説得にかかった。

このあたりになると、さまざまな動きは時間差もあるので錯綜するが、焦点は茂久公の上洛だ。

それがどうなるか分からない中で、慶喜公は征夷大将軍の辞表を提出して、倒幕の口実をなくしてしまおうとされた。10月24日である。

しかし、幕府方では大政奉還など許すまいという勢力も強かった。とくに、江戸では京都での怒濤のような変化について行けず、驚天動地だったらしい。

だが、慶喜公の周辺でも洋学者で西洋の政体に詳しい西周など大政奉還の路線に乗ろうとする者は、新政体についての具体案を思案していた。

ここで三条実美の家臣で制度の歴史に詳しい戸田雅楽が作成し、私から後藤らに17日に見せたのが「新官制議定書」である。

これは、私たちの理想とかでなく、後藤らが土佐の意見として担ぎやすいように書いたものだ。あちこちに見せ、そのときに、相手の立場もいろいろ配慮した。微妙に違う案がいくつか残っているのはそのためだ。

やや私も記憶がはっきりしないのだが、関白、内大臣、議奏、参議を置くとし、関白には三条実美公、内大臣は慶喜公が擬せられた。

戸田が考えた案だから三条公が関白になっていたわけだし、この時点では慶喜公の内大臣としての官職を剥奪する理由もなかったから、こうしておくのが穏当だった。

議奏には有栖川宮、仁和寺宮、正親町三条、大原、中山、中御門、岩倉、東久世、嵯峨などの公家衆、それに、薩摩、長州、越前、土佐、肥前、宇和島の諸侯が擬せられた。

参議には西郷、大久保、木戸、横井、三岡(由利公正)、長岡、後藤、福岡、それに私の名も出たが、このあたりは、必ずしも文書にしたわけでもないし、相手によっても違うことをいったので、あまり詰めた案ではなかった。

このとき、私自身の立場がどういうものだったかは、あとでまた論じるが、この人事構想の骨格は、職名こそ総裁、副総裁、議定、参与と変わるが、王政復古後の新政府で生かされるのである。

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