龍馬の幕末日記69:新政体について先手必勝で動かなかった慶喜のミス

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

徳川慶喜 Wikipediaより

大政奉還はされ、なんらかの形で、有力諸侯が参画し、また、有能な下級武士が実を仕切れる政府を創らねばならないというのは、自明の理であった。

しかし、近衛兵も必要だし、それ以前に、財源をどうするかが問題だった。大政奉還をした以上は、征夷大将軍の職とか幕府というものが存続するというのは、論理的にもおかしい。

もちろん、幕臣やこちこちの佐幕派にはそういう考え方の者もいたかもしれないが、理屈に合わず実現不能の机上の空論だった。

まず、財源だが、徳川家の持つ400万石、旗本領なども併せれば800万石にもなる領地や家臣をどうするのかということが問題だった。

この膨大な幕府直轄地(「天領」というのは明治になってからの呼称で江戸時代には使われていない)がそのままでは、公議によって政治を行うといっても、図抜けた江戸藩の思いのままになりかねない。

それに、中央政府としての新政府にとって必要な財源も確保できない。そこで財源確保のために、私が銀座を江戸から京都に移せばどうか、ということを後藤象二郎に提案した。小判を改鋳するとか、紙幣でもどんどん出せばいいという発想ではあるのだが、それだけに頼るわけにはいかない。

かつて、大久保一翁先生が徳川家は駿遠参の大名に戻ればいいと言ったり、越前の松平春嶽公が江戸城を出て徳川宗家も御三家並みになるべきだとおっしゃったりしたこともあったが、慶喜公がのちに辞官納地に追い込まれるのを未然に防ぎたければ、先手必勝のはずだった。

とりあえず、100万石だけでも朝廷に新政府の基礎財源として献上し、あとは諸侯が平等に拠出しろと提案されるとか、たとえば、田安亀之助に徳川宗家を嗣がせて江戸藩にでもして、慶喜は大坂藩主にでもなって、御三卿でも藩主にした駿府藩、甲府藩でもつくって御三家並みにするとか、親王でも江戸城に迎えて旗本も面倒見てくれとか難題をふっかけても構わないのである。

旗本は徳川恩顧だと間違っている人もいるが、旗本のかなりの部分は、領地召し上げになった大名家で外様が多いのだ。

そうすれば、慶喜公も有力諸侯の一人として、政権を担うことは可能だったし、それなら薩長も納得する余地があった。

それに、ここのところが見逃されがちなのだが、巨大な徳川宗家を維持したとしても、慶喜公はともかくその跡継ぎが見識と実力で政務を担い続けるなど無理な相談だったはずだ。

慶喜公の政権が続くとしても一代限りのことだっただろうし、慶喜公にとってはそれで良かったはずなのである。

ところが、慶喜公は、大政奉還を納得できないとか、再び朝廷から幕府に政務を委任してもらうべきだとかいう幕府のなかの抵抗勢力を説得するのに時間を浪費され、新しい体制についての具体的な提案や行動をされなかった。

ただ、土佐として慶喜公に領地を差し出せとか、幕府を早々に解消しろとか、徳川宗家をいくつかの藩に分割しろなどといえる立場ではない。それは、慶喜公みずからがそのように手配されるか、それとも、尾張の慶勝公とか越前の春嶽公が助言されるべきことだったのである。

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