※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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大政奉還のショックが醒めやらぬ慶応3年11月17日、小松、西郷、大久保は久光公と協議するために鹿児島に発ち、そこに戸田雅楽も便乗させてもらうことになった。
政体についての案を練るためには彼がいないと、歴史だとか法律論に弱い私だけではどうしようもないのだが、戸田としては大宰府にいる主君である三条公のところに大政奉還の報告をしなくてはならない。
さらに、中央政界復帰のてはずについて打ち合わせをしなくてはならないのは当然だから仕方なかった。
一方、「船中八策」の起草者である長岡謙吉を西洋の制度を勉強させるために横浜に派遣した。
私自身は、10月24日に京都を発って福井へ向かった。後藤象二郎から春嶽公の上京を促す手紙を届けるように頼まれたからである。
といっても、春嶽公の上京はすでに決まっていたから、仕事はしごく形式的なもので終わった。
この福井行きの収穫は、三岡八郎との会談だった。のちに「五箇条のご誓文」を起草する由利公正である。三岡は文久3年の挙藩上京計画事件で蟄居を命じられていたのだが、特別の計らいで目付の同席を条件に会えた。場所は烟草屋という旅籠である。
三岡は横井小楠の薫陶を受け、藩の財政再建に辣腕をふるったことで知られる。当然に新政府の財政政策を問うたのだが、彼の意見は紙幣の発行であった。三岡は福井でも大量の藩札発行を成功させて一躍その名を高めたのだが、いうまでもなく、これを成功させるには周到な手だてが必要である。三岡は懇切丁寧に要諦を教えてくれた。
福井から京都に戻ったのは11月5日のことだが、このころには、後藤は容堂公と打ち合わせのために土佐へ向かって旅立っていた。こうして、薩摩の重役も後藤もいなくなった京都はちょっとした真空地帯になった。
嵐の前の静けさだが、なんとか形成を挽回を図る会津や新撰組はその存在を誇示できるような標的を探し求めていたのである。
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