龍馬の幕末日記71:徳川慶喜が将軍を引き受けるまでの本当の話

八幡 和郎

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

京へ戻った私は、慶喜側近の永井尚志と会うのだが、ちょっと、ここで将軍になってからの慶喜公の動きについておさらいを二回に分けてしておきたい。

徳川慶喜 Wikipediaより

慶応元(1865)年の終わりから進められた第二次長州征伐は、高杉晋作や大村益次郎の活躍で幕府軍の完敗となった。日露戦争での勝利の国内版のようなものであった。

こうした戦況不利の報せが相次ぐ中で、将軍家茂公が大坂城で息を引き取った。慶応二(1866)年7月20日のことである。脚気が原因であった。白い米ばかり食べてビタミンB不足になって起こるこの病気は長く豊かな日本人の国民病のようなもので、日清戦争では戦死者より脚気での死者の方が多かったほどである。

それから11年後、32歳の和宮も同じ脚気で亡くなった。

徳川家茂像(九州博物館蔵:Wikipediaより)

将軍家茂が大坂城で若い命を終えたとなれば、誰しもが淀君の怨霊の仕業かと感じただろう。250年前に、降伏を申し出た淀君と秀頼を、徳川は情け容赦なく死に追いやった。

その怨霊は千姫を襲い、それを抑えるために千姫(天樹院)が秀頼の供養を伊勢慶光院の周清尼に依頼したり、後に「縁切り寺」で有名となる東慶寺の伽藍を再建している。

だが、その豊臣の大坂城を覆い隠すような形で築かれた徳川の巨大な城が、はじめて実用に供されたとき、敗報相次ぐ中での将軍の死という悲劇が起きたのだから、迷信深い人でなくとも、淀君の恨みの恐ろしさを身にしみて感じたことであろう・・・。

とりあえずは家茂の死は秘したまま戦争は続けられ、慶喜は自ら軍の先頭に立つと勇ましくいったのだが、藩主不在のまま、(一族で現役の老中だった)唐津藩の小笠原長行が守っていた小倉城が高杉晋作らの攻撃で落城したと聞くや、あっさりと進発を撤回した。

後継将軍について、江戸を出るとき、家茂は田安亀之助(のちの家達)を万が一の時には跡継にといったという話もあったが、わずか三歳の幼児であり、この多難な時期にふさわしくなく、天璋院など慶喜に好感を持たない人たちも含めて、慶喜に将軍を引き受けて欲しいと頼むしかなかった。

慶喜は、「先年、将軍後継問題のときに自分に野心があるのではといわれ、たいへん不愉快な思いをした。いま相続を受ければ、その悪評を裏付けることになろう」などといって頑強に辞退し、ついで、将軍は嫌だが徳川宗家の後継は受けるといった。

しかし、孝明天皇の説得もあって、12月5日になってやっと第15代将軍が誕生する。ところが、12月25日に孝明天皇が急死する。慶喜はもっとも当てにしていた後ろ盾を失った。

このとき慶喜の説得に当たったのは、老中板倉勝静、永井尚志と松平春獄である。その春獄は慶喜のことを「ねじあげの酒飲み」だといった。酒席で「もう飲みたくない」というが、それでも杯を勧めないと機嫌が悪く、最後にはまた飲むといった意味である。

世間でもそのようにとったのだが、受けたくないというのは存外本心だったのだろう。 側近の原市之進には、「いままで通りの形で徳川家を持ち伝えることは困難であり、王政ににもどしたらどうか」といったのだが、

「もっともでありますが、ひとつ誤れば大混乱になります。いまの老中など軽輩に任せては、それもできないのではありませんか」

といわれ、

「宗家相続のみで将軍職を受けなくてもよいなら要請を受けねばなるまい」

といって、まずは、徳川家の当主となることを引き受けたと本人は後年語っている。

このときすでに大政奉還が頭にあったのだが、外国との外交関係の処理もあって、結局は将軍も引き受けたというのである。

その外交関係では、日本の元首が誰かということが問題になった。このことは、ペリーやハリスも問題にしたところである。一応、将軍が対外的には国を代表して折衝に当たるのだということで納得していた。

ところが、この時期になって、フランス公使のロッシュは「マジェスティ(陛下)」という呼び方で慶喜を元首扱いするが、英国公使パークスは「ハイネス(殿下)」と呼んで、天皇こそ元首だという態度を示した。

幕閣ではこれを問題にするものもいたが、慶喜自身は帝が京都におられるのだから、マジェスティーはまずいのではとも意見したが、議論がまとまらず、併存ということになった・・・と回想している。


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