※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
■
将軍になった慶喜公は、幕政の改革を強引に押し進める。ただし、ここでいう幕政というのは、もはや日本政府としてということでなく、はっきりと徳川藩としての立場強化のためのものである。
これまで大名が就いていた若年寄を旗本から選ぶとか、旗本の知行の一部を金納させて常備軍を設置する、横須賀に造船所をつくる、といったものである。
こうした改革のうしろにはフランス公使ロッシュがおり、そのすすめでパリ万国博に出展するといったことも行われた。ロッシュは多額の借款をフランスからする事を斡旋するといい、その替わりに貿易の一部を独占するという話し合いも行われた。
その中心になったのが、小栗忠順であったが、この計画はフランスにおける外務大臣の交代もあって不調に終わり、小栗忠順の企ては失敗した。というか、普仏戦争前夜のフランスに極東でイギリスと正面衝突する環境はなかったので、もともと、ロッシュの勘違いだった。
慶喜が「一会桑」体制で幕府の権力維持より、天皇のもとでの独裁者をめざしたらしい、というのはすでに書いた通りである。その前提は徳川宗家の当主と将軍になったことで変わったが、慶喜の考え方に何かしらの変化が生じたわけではない。
この人がめざしたところは何であったかと考えると・・・、近代において開発途上国などで多く出現した開発独裁者でないか。天皇の親任を受けて、権力を思うがままにふるうのが彼の理想だったのでないか。幕府権力を強化し、徳川将軍をエンペラーのようにしようとしたという説明もあるが、慶喜のめざした指導者像は世襲に馴染むものではない。
むしろそのいきつくところは、長州が考え、明治体制として実現したものに実は似通ったものだった。
ただし、政権基盤として自分のものになった幕府直轄の軍事力なり経済力は使おうとした。あるいは、会津であろうが、薩摩であろうが、自分のいう通りに奉仕させようとした。
このあたりが、周囲の人たちにとっても、まったく理解不能であり、そのギャップが常にこの人物に対するそれぞれの立場からの過剰な期待を生み、逆に失望させられる所も大きかった。
こうしたスタイルは、近衛文麿や細川護煕と類似しているのだが、さらに、慶喜の場合には、本人が新しい時代を支配しつつあった西洋的な論理的思考方法に、誰よりも長じた存在だった。しかも、演説から肉体労働まで万般に渡って、もっとも器用にこなすばかりか、やるとなれば自分ですべてをしないと気が済まない性格で、自分の意図を隠すための演技が千両役者張りに鮮やかだった。こういったことが、益々、ことをややこしくしていた。
将軍としての慶喜の仕事で目を見張る大成功となったのが兵庫開港問題である。慶応3(1867)年3月下旬に大坂で、4カ国公使と会談した慶喜は、兵庫開港を約束し、それを新聞などに公表することまで了承した。
このあと、慶喜は松平春獄、島津久光、伊達宗城、山内容堂らに協力を求めたが、積極的な賛同は得られなかった。そこで、慶喜は禁裏に乗り込んで御所虎の間で二条摂政らを相手に、27時間もの昼夜徹しての説得を試み、根負けする形で兵庫開港の勅許がおりた。
この政治的勝利に討幕派はかえって警戒を募らせた。「家康の再来を見るがごとし。軍制も改革され幕府は衰運再び勃興する勢いにある」と桂小五郎が慨嘆したのもこのころである。
■
「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと」はこちら
「龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)」はこちら
「龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い」はこちら
「龍馬の幕末日記㊹ 武器商人としての龍馬の仕事」はこちら
「龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話」はこちら
「龍馬の幕末日記㊻ 木戸孝允がついに長州から京都に向う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変」はこちら
「龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊾ 寺田屋で危機一髪をお龍に救われる」はこちら
「龍馬の幕末日記㊿ 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記51 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記52: 会社の金で豪遊することこそサラリーマン武士道の鑑」はこちら
「龍馬の幕末日記53:土佐への望郷の気持ちを綴った手紙を書かされるはこちら
「龍馬の幕末日記54:土佐藩のために働くことを承知する」はこちら
「龍馬の幕末日記55:島津久光という人の素顔」はこちら
「龍馬の幕末日記56:慶喜・久光・容堂という三人のにわか殿様の相性」はこちら
「龍馬の幕末日記57:薩摩の亀山社中から土佐の海援隊にオーナー交代」はこちら
「龍馬の幕末日記58:いろは丸事件で海援隊は経営危機に」はこちら
「龍馬の幕末日記59:姉の乙女に変節を叱られる」はこちら
「龍馬の幕末日記60:「船中八策」を書いた経緯」はこちら
「龍馬の幕末日記61:船中八策は龍馬が書いたものではない」はこちら
「龍馬の幕末日記62:龍馬がイギリス公使から虐められる」はこちら
「龍馬の幕末日記63:イカルス号事件と岩崎弥太郎」はこちら
「龍馬の幕末日記64:慶喜公の説得と下関でのお龍との別れ」はこちら
「龍馬の幕末日記65:山内容堂に龍馬が会ったというのはフェイクニュース」はこちら
「龍馬の幕末日記66:坂本家に5年ぶりに帰宅して家族に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記67:龍馬は大政奉還を聞いて慶喜公に心酔などしてない」はこちら
「龍馬の幕末日記68:大政奉還ののち西郷らは薩摩に向かう」はこちら
「龍馬の幕末日記69:新政体について先手必勝で動かなかった慶喜のミス」はこちら
「龍馬の幕末日記70:福井で「五箇条のご誓文」の作者三岡八郎と語る」はこちら
「龍馬の幕末日記71:徳川慶喜が将軍を引き受けるまでの本当の話」はこちら