龍馬の幕末日記72:将軍慶喜がめざした日本の姿

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ Wikipediaより

将軍になった慶喜公は、幕政の改革を強引に押し進める。ただし、ここでいう幕政というのは、もはや日本政府としてということでなく、はっきりと徳川藩としての立場強化のためのものである。

これまで大名が就いていた若年寄を旗本から選ぶとか、旗本の知行の一部を金納させて常備軍を設置する、横須賀に造船所をつくる、といったものである。

こうした改革のうしろにはフランス公使ロッシュがおり、そのすすめでパリ万国博に出展するといったことも行われた。ロッシュは多額の借款をフランスからする事を斡旋するといい、その替わりに貿易の一部を独占するという話し合いも行われた。

その中心になったのが、小栗忠順であったが、この計画はフランスにおける外務大臣の交代もあって不調に終わり、小栗忠順の企ては失敗した。というか、普仏戦争前夜のフランスに極東でイギリスと正面衝突する環境はなかったので、もともと、ロッシュの勘違いだった。

慶喜が「一会桑」体制で幕府の権力維持より、天皇のもとでの独裁者をめざしたらしい、というのはすでに書いた通りである。その前提は徳川宗家の当主と将軍になったことで変わったが、慶喜の考え方に何かしらの変化が生じたわけではない。

この人がめざしたところは何であったかと考えると・・・、近代において開発途上国などで多く出現した開発独裁者でないか。天皇の親任を受けて、権力を思うがままにふるうのが彼の理想だったのでないか。幕府権力を強化し、徳川将軍をエンペラーのようにしようとしたという説明もあるが、慶喜のめざした指導者像は世襲に馴染むものではない。

むしろそのいきつくところは、長州が考え、明治体制として実現したものに実は似通ったものだった。

ただし、政権基盤として自分のものになった幕府直轄の軍事力なり経済力は使おうとした。あるいは、会津であろうが、薩摩であろうが、自分のいう通りに奉仕させようとした。

このあたりが、周囲の人たちにとっても、まったく理解不能であり、そのギャップが常にこの人物に対するそれぞれの立場からの過剰な期待を生み、逆に失望させられる所も大きかった。

こうしたスタイルは、近衛文麿や細川護煕と類似しているのだが、さらに、慶喜の場合には、本人が新しい時代を支配しつつあった西洋的な論理的思考方法に、誰よりも長じた存在だった。しかも、演説から肉体労働まで万般に渡って、もっとも器用にこなすばかりか、やるとなれば自分ですべてをしないと気が済まない性格で、自分の意図を隠すための演技が千両役者張りに鮮やかだった。こういったことが、益々、ことをややこしくしていた。

将軍としての慶喜の仕事で目を見張る大成功となったのが兵庫開港問題である。慶応3(1867)年3月下旬に大坂で、4カ国公使と会談した慶喜は、兵庫開港を約束し、それを新聞などに公表することまで了承した。

このあと、慶喜は松平春獄、島津久光、伊達宗城、山内容堂らに協力を求めたが、積極的な賛同は得られなかった。そこで、慶喜は禁裏に乗り込んで御所虎の間で二条摂政らを相手に、27時間もの昼夜徹しての説得を試み、根負けする形で兵庫開港の勅許がおりた。

この政治的勝利に討幕派はかえって警戒を募らせた。「家康の再来を見るがごとし。軍制も改革され幕府は衰運再び勃興する勢いにある」と桂小五郎が慨嘆したのもこのころである。

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