※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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慶喜は兵庫開港問題で大成功した。だが、過度の成功は失敗のもとだ。この敗北が島津久光の迷いを吹っ飛ばしたのである。このころになると久光も幕府に固執する気はなかったが、薩摩藩が倒幕一辺倒でまとまるというわけではなかった。財政も破綻寸前で、保守派の勢いも侮れなかった。
一方、もともと武士が人口の4分の1を占め、しかも、下級武士たちまで中央政局で活躍するうまみを知ってしまった以上は、新しい仕事を大量に獲得するしかなかった。そのためには、大幅な加増か、倒幕しかなくなっていたのである。
そういう意味では、薩摩が倒幕に傾くのは必然だったが、導火線に火をつけたのは慶喜のあまりにも鮮やかすぎる成功だった。
元治のころのように、慶喜が一大名として名を上げるのは我慢できても、将軍としての勝利は、いつか薩摩自身の災難となりかねなかったのだ。
は4月12日に三年ぶりに上京して、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城とともに慶喜から協力を依頼された。一時的には、久光も、もともと文久3(1863)年の政変で慶喜を将軍後見職に推した経緯もあり、やや協調的な気分を見せた。
だが、慶喜の身勝手な行動に次第に不愉快さをつのらせ、健康状態も良くなかったので8月15日には帰国してしまった。
あとは、いよいよ脂がのりきってきた西郷と大久保、そして、上層部にあって彼らの理解者だった小松帯刀が、京における薩摩の代表者として残された。
慶喜は、10月14日、諸大名らを二条城に集め「大政奉還」を上奏することを発表した。別にいやいやではなかった。諸侯による上院、下級藩士たちによる下院という仕組みが、慶喜の考えているイメージにぴったりあったのである。
これなら、尊皇の立場も維持できるし、そこそこ発言権は確保でき、しかも、嫌になれば投げ出せるのだから、彼にとってまことに好都合だったのである。
ただ、慶喜以外の幕閣では朝廷からは一度は思いとどまるように押し返されるとも考えていたらしいが、「国家の大事と外交は衆議して執り行うので、小事のみ従前通り幕府で行うこと」としたのみで、やや当て外れで少し違ったことになってきた。
これを聞いて、江戸からも「東照宮に申し訳ない」などといって来るものが多かったが、慶喜はこれをいちいち説き伏せた。ただ、天下の情勢に疎い江戸の者への説得には、なかなか手こずったらしい。とくに会津が問題だった。これが私にとって困ったことになってきた。
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