龍馬の幕末日記74:どうして会津は京都守護職を引き受けたのか

八幡 和郎

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

もうすぐ、近江屋事件というところまで来て、時計を逆に戻すのは恐縮だが、会津の話を少ししておかないと話が前に進まない。そこで、しばらく、そちらの話をする。

会津若松城(PixHound/iStock)

私は「新官制議定書」で関白、内大臣、議奏、参議を設けるとして、内大臣に慶喜公を書いたが、この文書のみそは、義奏や参議は勤王藩で固めて佐幕藩や幕臣は全員排除してあった。

つまり慶喜公を会津や新撰組や旗本と切り離そうとしたのである。とくに会津を慶喜公周辺から排除することが一番大事だった。

その話をするには、なぜ会津が京都に来たかということからおさらいするしかないので、これまでの話と少しダブるところはあるが、数回に分けてその話をしたい。

幕末において会津藩が究極の貧乏くじというべき京都守護職を引き受けることになったのは、彦根藩の代理という性格のものだった。

本来は京都に近い彦根城主である井伊家が京都守護という肩書きを持っており、いざというときには、京都における幕府方の責任者になるのが役目だったはずだ。

ところが、井伊直弼が大老として安政の大獄を引き起こした。水戸斉昭が京都の公家まで巻き込んで企てた一種のクーデター計画への対抗措置で、その意味では正当だったが、それを機会にそれと関係ない吉田松陰ら勤皇攘夷派の人々を巻き添えにしたのである。

桜田門外の変で水戸の浪士が井伊直弼を暗殺したことで、本来なら水戸藩はもちろん彦根藩も取りつぶしになってもおかしくなかったが、老中・安藤信正は病死ということにすることを彦根藩に勧めた。

このとき、会津藩の松平容保も水戸藩への処罰論に反対して穏便に収めるように意見した。

公武合体路線で和宮の将軍家茂への降嫁もあり、しばし平穏だったが、朝廷の力は増すばかりで井伊残党政権では収まりが付かなくなり、文久2年には薩摩の島津久光が兵を連れて上洛。ついで勅使とともに江戸にやってきて圧力をかけ、一橋慶喜を将軍後見職に、越前の松平春嶽を政事総裁職とするクーデターが成功したことは紹介した通りだ。

そのときに京都の治安を守るべく、それまで、小大名がつとめていた京都所司代の上に京都守護職を送り込むことになった。本来なら彦根藩の仕事だが、この政変で、直弼の死を偽って病死として届けたのが不行き届きだとして減封され、京都守護も免じられてしまった。それに、孝明天皇や公家たちからの憎悪の対象になっていたから現実的にもこの役目は無理だった。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと」はこちら
「龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)」はこちら
「龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い」はこちら
「龍馬の幕末日記㊹ 武器商人としての龍馬の仕事」はこちら
「龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話」はこちら
「龍馬の幕末日記㊻ 木戸孝允がついに長州から京都に向う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変」はこちら
「龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊾ 寺田屋で危機一髪をお龍に救われる」はこちら
「龍馬の幕末日記㊿ 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記51 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記52: 会社の金で豪遊することこそサラリーマン武士道の鑑」はこちら
「龍馬の幕末日記53:土佐への望郷の気持ちを綴った手紙を書かされるはこちら
「龍馬の幕末日記54:土佐藩のために働くことを承知する」はこちら
「龍馬の幕末日記55:島津久光という人の素顔」はこちら
「龍馬の幕末日記56:慶喜・久光・容堂という三人のにわか殿様の相性」はこちら
「龍馬の幕末日記57:薩摩の亀山社中から土佐の海援隊にオーナー交代」はこちら
「龍馬の幕末日記58:いろは丸事件で海援隊は経営危機に」はこちら
「龍馬の幕末日記59:姉の乙女に変節を叱られる」はこちら
「龍馬の幕末日記60:「船中八策」を書いた経緯」はこちら
「龍馬の幕末日記61:船中八策は龍馬が書いたものではない」はこちら
「龍馬の幕末日記62:龍馬がイギリス公使から虐められる」はこちら
「龍馬の幕末日記63:イカルス号事件と岩崎弥太郎」はこちら
「龍馬の幕末日記64:慶喜公の説得と下関でのお龍との別れ」はこちら
「龍馬の幕末日記65:山内容堂に龍馬が会ったというのはフェイクニュース」はこちら
「龍馬の幕末日記66:坂本家に5年ぶりに帰宅して家族に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記67:龍馬は大政奉還を聞いて慶喜公に心酔などしてない」はこちら
「龍馬の幕末日記68:大政奉還ののち西郷らは薩摩に向かう」はこちら
「龍馬の幕末日記69:新政体について先手必勝で動かなかった慶喜のミス」はこちら
「龍馬の幕末日記70:福井で「五箇条のご誓文」の作者三岡八郎と語る」はこちら
「龍馬の幕末日記71:徳川慶喜が将軍を引き受けるまでの本当の話」はこちら
「龍馬の幕末日記72:将軍慶喜がめざした日本の姿」はこちら
「龍馬の幕末日記73:慶喜と会津・江戸の幕閣との思惑の違いが明確に」はこちら