※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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京都守護職をやりたいと思った藩がないわけでない。薩摩藩である。しかし、これはさすがに幕府が嫌った。そんなことしたら、島津幕府になりかねない。なにしろ、島津は本当とは思えないが、源頼朝の直系だと言い出して、鎌倉にそれまでなかった頼朝の墓まで造営していた。いつでも、征夷大将軍になれる準備をしていたのである。
それでは、親藩譜代で彦根に匹敵する兵力を持ち京都に近いというと福井藩があった。しかし、松平春嶽が政事総裁職(事実上の大老)になったのでダメだった。となると、東北が領地であるが、家柄も彦根に匹敵し、樺太や江戸湾警備に出動したこともある会津しかないということになってしまった。
会津藩主が、将軍の代理として京都に使いに行ったこともあったので、まったく土地勘がないわけでもないということでもあった。
容保は元々病弱な体質で、京都守護職を引き受けよと言う意向が伝えられたときも、風邪をひき病臥していて家老を代理で登城させたほどで、そもそも体力的にも無理があった。それに、会津にとって京都はあまりにも遠いからコストもかかるし、言葉や習慣などの違いも深刻だった。
すでに沿岸警備を関東でしたときも、東北でやっているような横柄な態度だったので総スカンをくったこともある。まして、上方で会津流が通るはずがない。
この幕府からの要請があったことを聞いて、家老西郷頼母や田中土佐が驚き江戸に出府して必死に主君に断るように懇願した。
だが、最後は「藩祖である保科正之公は将軍家への忠誠を失えば我が子孫にあらずと遺訓をされていたはず」と春嶽から痛いところをつかれて、容保はこの貧乏くじを引き受けてしまった。
容保は、寡黙ながらも意見を求められたときの応答ぶりは的を射ていたし、ひたむきな誠実さは会う人に好感を与えた。頭脳も明晰なことは、兄弟たちや子孫の優秀さからも推し量れるところだ。
しかし、強く頼まれると断るのが苦手で、あらかじめ決めていた方針を貫徹できないのが欠点だった。病弱で神経質でもあり、臥せることも多かった。
そもそも、会津藩と彦根藩は江戸城でともに溜間詰で親しかった。江戸城に大名は定期的に登城したが、それぞれ、大名同士が社交生活を行うサロンというべき伺候部屋が決められており、どの部屋にふられるかは大名たちにとって大関心事だった。だいたいは固定されているのだが、将軍家から養子や正室をもらうとか、功績があると格上げになって、それは非常に名誉なこととされた。
大廊下は将軍家親族席で、上之部屋と下之部屋の二つに仕切られ、前者には御三家が詰めた。そのほか、甲府、館林(三代将軍家光の子)、御三卿(八代将軍吉宗及び九代将軍家重の子)、上野吉井松平(三代将軍正室の弟に始まる鷹司松平)があったこともある。下之部屋は加賀前田家のほか、越前松平家、それに幕末だと十一代将軍家斉の男子を養子に迎えた阿波蜂須賀家、津山松平家、明石松平家など。あとは、島津家や伊達家など主だった外様は大広間、主な譜代は帝鑑間、小大名は柳間にあった。
そんななかで溜間というのは、有力譜代や格の高い親藩が入るところであった。幕政の枢機について老中から相談に応じることが多く、顧問室といった趣きだった。ここの筆頭が彦根の井伊家であり、大老にしばしばなったのも、溜間代表としてだった。
それとともに固定メンバーだったのが、会津松平家と水戸藩分家の高松松平家だ。姫路藩酒井氏とか松山藩松平氏もときどき入っていた。
そんなわけで、井伊直弼が埋木舎での部屋詰めから、兄の死で世子となって彦根から江戸に出てきたとき、江戸城での習慣に不慣れな直弼を高松藩主松平頼胤とともに親切に指導したのも、松平容敬だった。この三つの藩の結束は堅かったが、容敬について、「無二念打ち払い令」を復活すべきかどうかの嘉永元年の諮問に対してだして出した反対意見を聞いた直弼が、「当今英勇の大将、天下の御為無二の忠心、実に感服いたし候」と誉めている。
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