※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
■
悲劇の大名・松平容保のキャッチフレーズは「忠義」である。しかし、誰に対しての忠義なのか?
普通には保科正之の「家訓」に従って幕府への忠義を貫いたものと称揚される。
だが、孝明天皇に対して無二の忠臣だったといわれたりもする。
そもそも、江戸大名たちが悩んでいたのは、天皇と将軍とが争ったときにどちらに味方すべきかということだ。結局は二者択一しなければならないのだから、どちらにもこれ以上ないほど忠義を尽くすなどということがありえようはずがない。
この点については、御三家の一つである水戸德川家での整理がだいたい常識的なところだ。水戸黄門こと第二代藩主の光圀は折に触れて近臣に「我が主君は天子であり、将軍は宗家である。それを取り違えるようなことがあってはいけない」と語り、「大日本史」の編纂を行った。
そして、幕末の名君である斉昭は、父である治済から「養子に行くときも譜代大名はよろしくない。譜代は何かことがあれば将軍家に従順でなくてはならないから、天子に弓を引くことになるかもしれない。我らは、将軍家がどんなにもっともだったとしても、天子に弓を引く場合には従えないと心得よ」といわれ、毎年正月元旦には、江戸城に登城するのに先だって庭に降り立って遙か京都の方角を拝することとしていた。
そして、最後の将軍慶喜が二十歳になったとき、「公にいうべきことでないが、御身にも心得のために内々に申し聞かせたい。我らは三家・三卿として幕府を輔翼すべきはいうまでもないが、もし一朝事あって朝廷と幕府とが弓矢に及ぶごときことがあれば、我らはたとえ幕府に背くとしても、朝廷に弓を引いてはならない。これは、光圀公以来の家訓であるから、ゆめゆめ忘れることのないように」と申し渡している。
つまり、水戸藩としては、もし朝廷と幕府が戦うなら、少なくとも外様大名や将軍家と対等の関係で德川姓を名乗る御三家は朝廷につくのが当然で、ほかの松平姓の親藩大名や譜代大名は幕府に味方するのが普通だろうと理解していたのである。
あるいは、領地にしても、松江で24万石を領していた京極家で嗣子がなかったとき、弟に何万石を与えるべきか議論があった。6万石を龍野(のちに丸亀)で与えたのだが、そのときに、山形鳥居家で嗣子がなかったときに高遠3万石にしたこととバランスが取れないという意見が井伊直孝から出た。
それに対して、京極家は豊臣政権下で德川家と同僚だったので德川家のお陰で大名になったのでない。だから、関ヶ原の戦い以前に近江の大津で領していた6万石は幕府から与えたものでないので取り上げないのだという理屈を酒井忠勝が出している。こうしたことを見れば、譜代大名は朝廷より幕府優先という整理がいちおう一般的な考え方としてあったのではないか。
ところが、現実には松平容保は、将軍より孝明天皇の忠臣として行動する。そのおかげで、8月18日の政変のあとの10月に「堂上以下、暴論を疎(つら)ねて、不正の処置、増長に付、痛心堪え難く、内命を下せしのところ、速やかに領掌し、憂患掃攘、存念を貫徹の段、全く其方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱、これを遣わすもの也」という宸翰と御製を賜り、朝敵となったのちもこれを肌身離さず持っていたことはよく知られている。
しかし、これでは正之の定めた家訓で要求された幕府への忠義には反している。そもそも、孝明天皇が攘夷を強行に主張される一方で、その意向通りに外国船砲撃で攘夷を実行した長州を排撃し、攘夷を否定している幕府に政権を保持してほしいとされたことは、さまざまな混乱の原因だった。攘夷派の過激な公家にしても、彼らの力が増したのは、大実力者だった鷹司政通(1823年から56年まで関白)などに対抗するために孝明天皇があと押しされたからである。
もし、容保が将軍に忠義を尽くすなら、孝明天皇に対して、開国が幕府の方針であることを明快に説明し、攘夷の方針は取れないというべきだった。佐幕攘夷などないものねで、幕府に政務を委任し続けたいなら開国を受け入れるべきだし、攘夷を貫きたいなら朝廷が自分で責任を持つしかないと、孝明天皇を説得すべきだった。それをしないで、忠義などというべきでもない。なまじ、京都守護職である容保が何の見通しもなく孝明天皇の意見を支持したことは、誰からも歓迎されず、国益を損ねもしたのである。
■
「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと」はこちら
「龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)」はこちら
「龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い」はこちら
「龍馬の幕末日記㊹ 武器商人としての龍馬の仕事」はこちら
「龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話」はこちら
「龍馬の幕末日記㊻ 木戸孝允がついに長州から京都に向う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変」はこちら
「龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊾ 寺田屋で危機一髪をお龍に救われる」はこちら
「龍馬の幕末日記㊿ 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記51 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記52: 会社の金で豪遊することこそサラリーマン武士道の鑑」はこちら
「龍馬の幕末日記53:土佐への望郷の気持ちを綴った手紙を書かされるはこちら
「龍馬の幕末日記54:土佐藩のために働くことを承知する」はこちら
「龍馬の幕末日記55:島津久光という人の素顔」はこちら
「龍馬の幕末日記56:慶喜・久光・容堂という三人のにわか殿様の相性」はこちら
「龍馬の幕末日記57:薩摩の亀山社中から土佐の海援隊にオーナー交代」はこちら
「龍馬の幕末日記58:いろは丸事件で海援隊は経営危機に」はこちら
「龍馬の幕末日記59:姉の乙女に変節を叱られる」はこちら
「龍馬の幕末日記60:「船中八策」を書いた経緯」はこちら
「龍馬の幕末日記61:船中八策は龍馬が書いたものではない」はこちら
「龍馬の幕末日記62:龍馬がイギリス公使から虐められる」はこちら
「龍馬の幕末日記63:イカルス号事件と岩崎弥太郎」はこちら
「龍馬の幕末日記64:慶喜公の説得と下関でのお龍との別れ」はこちら
「龍馬の幕末日記65:山内容堂に龍馬が会ったというのはフェイクニュース」はこちら
「龍馬の幕末日記66:坂本家に5年ぶりに帰宅して家族に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記67:龍馬は大政奉還を聞いて慶喜公に心酔などしてない」はこちら
「龍馬の幕末日記68:大政奉還ののち西郷らは薩摩に向かう」はこちら
「龍馬の幕末日記69:新政体について先手必勝で動かなかった慶喜のミス」はこちら
「龍馬の幕末日記70:福井で「五箇条のご誓文」の作者三岡八郎と語る」はこちら
「龍馬の幕末日記71:徳川慶喜が将軍を引き受けるまでの本当の話」はこちら
「龍馬の幕末日記72:将軍慶喜がめざした日本の姿」はこちら
「龍馬の幕末日記73:慶喜と会津・江戸の幕閣との思惑の違いが明確に」はこちら
「龍馬の幕末日記74:どうして会津は京都守護職を引き受けたのか」はこちら
「龍馬の幕末日記75:どうして会津藩には京都守護職など最初から無理だったのか」はこちら
「龍馬の幕末日記76:会津の京都守護職6年間を総括する」はこちら