龍馬の幕末日記77:江戸幕府でなく孝明天皇に忠誠を尽くした迷走

八幡 和郎

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

悲劇の大名・松平容保のキャッチフレーズは「忠義」である。しかし、誰に対しての忠義なのか?

普通には保科正之の「家訓」に従って幕府への忠義を貫いたものと称揚される。

だが、孝明天皇に対して無二の忠臣だったといわれたりもする。

そもそも、江戸大名たちが悩んでいたのは、天皇と将軍とが争ったときにどちらに味方すべきかということだ。結局は二者択一しなければならないのだから、どちらにもこれ以上ないほど忠義を尽くすなどということがありえようはずがない。

この点については、御三家の一つである水戸德川家での整理がだいたい常識的なところだ。水戸黄門こと第二代藩主の光圀は折に触れて近臣に「我が主君は天子であり、将軍は宗家である。それを取り違えるようなことがあってはいけない」と語り、「大日本史」の編纂を行った。

そして、幕末の名君である斉昭は、父である治済から「養子に行くときも譜代大名はよろしくない。譜代は何かことがあれば将軍家に従順でなくてはならないから、天子に弓を引くことになるかもしれない。我らは、将軍家がどんなにもっともだったとしても、天子に弓を引く場合には従えないと心得よ」といわれ、毎年正月元旦には、江戸城に登城するのに先だって庭に降り立って遙か京都の方角を拝することとしていた。

そして、最後の将軍慶喜が二十歳になったとき、「公にいうべきことでないが、御身にも心得のために内々に申し聞かせたい。我らは三家・三卿として幕府を輔翼すべきはいうまでもないが、もし一朝事あって朝廷と幕府とが弓矢に及ぶごときことがあれば、我らはたとえ幕府に背くとしても、朝廷に弓を引いてはならない。これは、光圀公以来の家訓であるから、ゆめゆめ忘れることのないように」と申し渡している。

つまり、水戸藩としては、もし朝廷と幕府が戦うなら、少なくとも外様大名や将軍家と対等の関係で德川姓を名乗る御三家は朝廷につくのが当然で、ほかの松平姓の親藩大名や譜代大名は幕府に味方するのが普通だろうと理解していたのである。

あるいは、領地にしても、松江で24万石を領していた京極家で嗣子がなかったとき、弟に何万石を与えるべきか議論があった。6万石を龍野(のちに丸亀)で与えたのだが、そのときに、山形鳥居家で嗣子がなかったときに高遠3万石にしたこととバランスが取れないという意見が井伊直孝から出た。

それに対して、京極家は豊臣政権下で德川家と同僚だったので德川家のお陰で大名になったのでない。だから、関ヶ原の戦い以前に近江の大津で領していた6万石は幕府から与えたものでないので取り上げないのだという理屈を酒井忠勝が出している。こうしたことを見れば、譜代大名は朝廷より幕府優先という整理がいちおう一般的な考え方としてあったのではないか。

ところが、現実には松平容保は、将軍より孝明天皇の忠臣として行動する。そのおかげで、8月18日の政変のあとの10月に「堂上以下、暴論を疎(つら)ねて、不正の処置、増長に付、痛心堪え難く、内命を下せしのところ、速やかに領掌し、憂患掃攘、存念を貫徹の段、全く其方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱、これを遣わすもの也」という宸翰と御製を賜り、朝敵となったのちもこれを肌身離さず持っていたことはよく知られている。

しかし、これでは正之の定めた家訓で要求された幕府への忠義には反している。そもそも、孝明天皇が攘夷を強行に主張される一方で、その意向通りに外国船砲撃で攘夷を実行した長州を排撃し、攘夷を否定している幕府に政権を保持してほしいとされたことは、さまざまな混乱の原因だった。攘夷派の過激な公家にしても、彼らの力が増したのは、大実力者だった鷹司政通(1823年から56年まで関白)などに対抗するために孝明天皇があと押しされたからである。

もし、容保が将軍に忠義を尽くすなら、孝明天皇に対して、開国が幕府の方針であることを明快に説明し、攘夷の方針は取れないというべきだった。佐幕攘夷などないものねで、幕府に政務を委任し続けたいなら開国を受け入れるべきだし、攘夷を貫きたいなら朝廷が自分で責任を持つしかないと、孝明天皇を説得すべきだった。それをしないで、忠義などというべきでもない。なまじ、京都守護職である容保が何の見通しもなく孝明天皇の意見を支持したことは、誰からも歓迎されず、国益を損ねもしたのである。

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