龍馬の幕末日記78:高松宮家の財産が徳川家の人々によって相続された事情

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

徳川慶喜 Wikipediaより

このころ、江戸の徳川家茂と京の一橋慶喜の関係が余り良くなかった。この対立にあって、容保は、慶喜の方と組んでいる。

慶喜というのは、勤皇をむねとする水戸家の生まれだけでなく、母親が有栖川宮家出身であるなど血統的にも濃厚に公家的だった。

このため、長州など尊皇攘夷派に心情的に近く、その意味で関係は円滑でなかったが、禁門の変で、はじめは長州と会津の争いとみて中立だったのが、逡巡ののちだが長州や尊皇攘夷派と対立したのちは容保との関係は良好になった。

しかし、孝明天皇の意向も反映し、幕閣とは独立して動く慶喜と江戸の幕府のあいだに対立関係が生じ、ここで一会桑(慶喜、容保に容保の実弟で京都所司代になった桑名藩主・松平定敬を加えて総称する)は、将軍家茂とは別の思惑をもった勢力となった。

家茂と一会桑がもっとも緊張したのは、元治2年の2月に本荘宗秀と阿部正外という二人の老中が挙兵上洛して、慶喜や容保を江戸へ戻し、彼らが京都に常駐するという意向を伝えたときだった。

徳川家茂像(九州博物館蔵:Wikipediaより)

これには、一会桑はもちろん、摂政の二条斉敬なども猛反発し、それを受けて、幕府が難色を示していた家茂の二度目の上洛が実現して丸く収まったことで結果的には改善を見る。

しかし、容保が孝明天皇に忠実だったが家茂に忠実だったとは思えないというのは、間違いない。。

さらに、大坂城での家茂の死後には、慶喜がもともと持っていた尊皇思想を復活させて、政権放棄へ向けて傾いていったので、こんどは、将軍になった慶喜との関係も悪化することになるが、それは、さきの話だ。

もうひとつの問題は、本当に忠義であるというのは、その意向を鵜呑みにすることかということだ。天皇であれ殿様であれ、間違っていると思えば意見する方が忠義であろう。孝明天皇は聡明でいろいろ意見もおありだが、少し極端に走るきらいがあった。それでは困るから公家たちも意見をいっていたのであって、天皇が思いつきで仰ったことを鵜呑みにする容保のような存在は状況を混乱させるだけだったのでないか。

孝明天皇(Wikipediaより)

鷹司政通にせよ攘夷派の公家などは、強く迫るとその場で反対したり、結論を先延ばしにすることは苦手な孝明天皇の性格を分かっているから、強引に説き伏せて「フムフム」と言わせてしまいがちななかで、いうことを聞いてくれる容保がお気に召したのも事実だが、それが誉められたことかは疑問なのだ。

また、将軍より天皇に忠実であるべしという哲学を透徹するなら、孝明天皇の崩御により明治天皇が践祚されたのちは、その意向に従うべきだ。ところが、そうではなかったのだから、単に孝明天皇個人に忠実だっただけと言うことになってしまう。

こういう軌跡を振り返って、容保と天皇、家茂、慶喜、薩摩といったところとの関係を整理してみると、結局のところ、容保は情緒的に孝明天皇に流されていただけで、信念がどこにあったのかを論理的に説明することは困難であり、「忠義の人」という誉め言葉はあてはまらないと思う。

余談だが、慶喜の母親は有栖川宮家出身だが、七男で公爵の爵位を慶喜から継いだ慶久は、有栖川宮威仁親王の第二王女である實枝子と結婚した。そして、有栖川宮家が途絶えたあと、その祭祀は高松宮殿下が継がれ、慶久と實枝子の次女である喜久子と結婚した。

そして、高松宮両殿下の薨去ののち、有栖川宮家の財産は、妃殿下の兄弟姉妹やこの子供たちによって相続された。課税対象の遺産総額は、この私有地を含む18億6000万円(土地分が8億6000万円)で、相続税は約7億8960万円だった。

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