龍馬の幕末日記79:新撰組が京都市民から嫌われた当然な理由

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

ヤクザとかマフィアなどを警察や行政が「活用」することは、古今東西よくあることだ。戦後の日本でも、某有名暴力団の大組長を某警察署が一日組長にしたことがあって、さすがに批判が集中したが、組長としてではなく社長としてお願いしたとか言っていた。

それでは、なぜそんな馬鹿なことをするかといえば、正規の警察や行政官に比べてヤクザはローコストなのだ。

近藤勇 Wikipediaより

まず、人件費が安い。警官や正規の公務員は給与も安くないし、怪我をしたり死んだりするとかなりの償いが必要だ。ところが、昔のヤクザは普段の生活に関する限り質素だし、怪我しても死んでも見舞い程度で済むし、コストも場合によっては民間からみかじめ料を徴収して自力救済してくれたからだ。

もうひとつは、なんだかんだいっても警察や公務員が取り締まりをするには法で定められた手続きを守らなければならないし、乱暴な処罰もできない。ところが、ヤクザは超法規的にやれる。

そんなわけで、警察や行政が仕事の合理化して怪しげな連中に取り締まりをまかせることはけっこう多い。江戸時代だと関東では幕府領や旗本領が入り組んで統一的な警察組織が組みにくかったので、親分衆におまかせということも多かった。

近代になっても、ヤクザのしのぎといえば、芸能界、夜の町、テキ屋の世界、港湾業務、廃棄物処理など正規の警察などでは秩序が保ちにくい分野が多かった。

しかし、いうまでもなく弊害も多い。彼らにまかせたりする安易なことをやっていると警察や行政は信頼を失うのである。

幕末の京都における新撰組というのは、現代風に言えば京都府警の応援に来た福島県警がなかばヤクザのような怪しげな武装集団を下請けに使って安直に治安維持しようとしたということだ。

なにしろ、藩士が自ら警察活動をすると死傷者が出る。会津は禁門の変で一番槍を入れながら死んだ窪田伴治が8石2人扶持だったのを遺族に400石に加増するなど大盤振る舞いをした。そうでなくとも、彼らの旅費や在京費用も高額であるのに死傷者など出したくないし増員も避けたい。

新撰組は、庄内出身の清河八郎が組織し、幕府が臨時で雇い上げた武装ボランティア集団である「浪士組」が勤皇の方向で迷走したのを受けて、近藤勇ら一部の者が京都で新集団を結成し、やがて京都守護職松平容保に雇われることになったものである。

一方、新撰組の農民や浪人出身の隊員たちは京都守護職から業務委託を受けたというだけで舞い上がって給与も少なくても文句言わないし、場合によっては「自力」で市民から調達をして生活費も稼ぐし、運悪く死んでも少々の見舞金くらいですむから使い捨てが用意だったのだ。

幕府から役料5万石と3万両をもらったとはいえ、それでは足りない。すでに書いているように、会津のような遠隔地の藩にまかせていることこそが高コストを不可避にしていたのだ。そこで、安易に非正規集団である新撰組などをいわば民間委託として安く使ったのだが、当然に京都市民の間でも不評だった。

新撰組を正規の警察というバカがいるが、ヤクザに警察手帳をもたせて、しかも、これまでのヤクザと同じように法律に基づけないで何やっていいと言うことにしたものを正規の警察とはお笑いだ。

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