龍馬の幕末日記80:京都市民の支持は新撰組でなく志士たちに集まる

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

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勤皇の志士たちを不逞なテロリストなどと新撰組ファンはいうが、勤皇攘夷という彼らの要求は筋が通っていたし市民から支持もされていた。孝明天皇の支持は途中から得られなくなっていたが、天皇は攘夷はあきらめずに言い続けている一方、攘夷の志士たちを嫌う天皇の方がおかしいと庶民は思うし、公家たちも攘夷派が多数派だ。

テロそのものは歓迎されないが、安政の大獄で無茶をやった幕府により非が大きいというのが世論だ。禁門の変にしても赦免を求めていることは筋が通っていると感じる。鎮圧後にも、長州兵を片端から処刑して勝海舟からも暴挙と非難されたほどであるし、京都の町が焼かれたのに、長州兵への弔いを多くの市民がした。

いずれにせよ、会津藩が新撰組を配下に入れて使ったのはよろしくなかった。関東の農民上がりのならず者集団が派手な衣装に身を包んで威張り散らして乱暴な取り締まりをする、場合によってはめかじめ料を要求する、遊郭などでの払いも悪いというのでは、それを雇っている会津藩が馬鹿にされて当然なのだ。

池田屋事件にしても、古高俊太郎を土方歳三が、「後ろ手に縛り上げ、足首に縄を付けて梁に逆さにつり上げ、足の裏に五寸釘を突き刺し、それに太い蝋燭を立て灯をともし、蝋を傷口にとけ込ます」といかになんでもまともな人間性とは思えない拷問にかけて白状させたというのだが、本当にそのような計画があったことを示す傍証すらない。でっち上げの可能性も高い。池田屋での会合にしても旅館などをしらみつぶしに調べて見つけたので、古髙が「一味でないと知り得ないことを自白」したのでないのだから、自白の信用性もない。

しかも、江戸時代でも身柄を押さえるとなればそれなりの手順があったし、まずは奉行所に同行を求めるのが筋で、いきなり踏み込んで斬りまくるなどルール違反である。現代でも過激派が終結しているらしいというだけで、よく調べもせずに踏み込んでいきなり射殺しまくれば非難囂々になるのと同じだ。しかも、このときも、彼らと関係ない勤皇派まで市中で殺している。

明治になって新撰組は勤皇の志士たちを弾圧した悪党として描かれたが、昭和初期の子母澤寛による「新選組始末記」や司馬遼太郎の諸作品を通じてヒーローのように扱われることも多くなった。京都でもそれに便乗して商売に使う人もいるが、彼らの実態からすればいじましいとしかいいようがない。

ただし、この時代にあって、関東では身分を超えて登用されるということが難しかった。そんななかで、近藤勇や土方歳三のような若者が、ひとつのチャンスとして新撰組に身を投じたことは理解できないものでもないが、それはヤクザに身を投じる若者が共通して持つ心理だし、彼らを雇った会津藩の立場が正当化されるものでもない。

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