※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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大坂夏の陣のあと、德川家康は大阪城の再建を必ずしも望まなかった。孫(築山殿との間の長女亀姫と奥平信昌の子)である松平忠明を留守居にとりあえずしたのだが、そのまま、これが大坂藩になる可能性もあった。その場合には、堺が再び繁栄を取り戻しただろう。
だが、徳川秀忠が本格築城を決めた。つまり伏見城が果たしていた徳川氏の関西における拠点を大坂城に移したのである。そののち、大坂は経済の中心として栄えていたが、城は城代がいるのみだった。
しかし、ここへ来て、実質的な幕府所在地になったのだ。いってみれば大坂幕府時代だ。
会津の悲劇をもたらした主要な理由のひとつは、幕末の京都における警察活動の乱暴さの報いであるし、そのことは早くから心配されていたことなのだ。
これと関連して付け加えるべきなのは、会津武士はたとえば、遊里で遊んでも財布のひもは固く、それも評判の悪さの原因だったことだ。
長州人はなにごとにも金払いがよかったし、土佐人もそうだ。
高杉晋作や伊藤博文に代表される志士たちも、公金の扱いなどではクリーンといいかねるが、民間人への支払いは実にきれいだった。
民衆にとっては、金払いの良さとか、無用な徴用をしないということが占領軍の評判がいいか悪いかの分かれ目なのだが、会津は優等生ではなかった。
一橋慶喜・松平容保(会津)・松平定敬(桑名藩主)の三人組のことを「一会桑」と呼ぶ。彼らが、本当の意味で、政局を牛耳れたのは、元治2年(5月に改元があって慶応元年。1865年)の春から秋にかけてであった。
これに先立ち、朝廷の意向に沿って三度目の将軍家茂の上洛を求める一会桑と、政治向きのことは江戸にまかせて欲しいという将軍家茂や老中が激しく対立し、慶喜や容保を罷免する方針すらいったん決められた。
この方針は朝廷の反対もあり撤回され、また、これを機会に、容保は国元などから出ていた京都守護職を辞めるべきだという意見を排して、長州情勢が落ち着くまでその職に留まるという決意を明確にした。
そして、三度目の上洛をした将軍家茂に対し、孝明天皇から「一橋、会津、桑名は久しく京都にあって人情形勢も掌握されているので、防長の処置についてもよく彼らと相談して進めるように」と厚い信頼を示した言葉があった。
また、朝廷が将軍の京都常駐を望んでいたのを、大坂城でよいという妥協を成立させたことが、家茂から一会桑の功績として評価されることになり、とりあえず、懸案だった一会桑と将軍周辺との溝も埋まった。
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