龍馬の幕末日記82:慶喜の一人芝居の影でドツボにはまった会津

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

徳川慶喜 Wikipediaより

第一次征長戦争の戦後処理で、長州への対処方針として老中らは取り潰しを提案した。ところが、西国諸侯がそれを好まないことを知っている容保らは、岩国城主・吉川監物と徳山藩主・毛利元蕃とを大坂に呼び出して話し合うとういうことと、10万石の減封、藩主父子の永蟄居、先に切腹した三家老家の断絶あたりで収めようという方向にもっていった。

ところが、そうは甘くなく、吉川・毛利の2名が出頭を拒否した。そこで、幕府も振り上げた拳の下ろしようがなく第二次征長に踏み切らざるを得ない羽目に陥った。

そうなれば、会津は経緯からいえば先鋒をつとめるべきところだが、国元から猛反対が出た。もともと国元は第一次征長のときも、「会津が正面に出ると私戦とみられる」という考えだった。

さらに、「長州はもっぱら会津のために朝敵にされたと、その怨み骨髄に徹しているので、長々と京都にいるのはやめないとたいへんなことになるだろう」と、たいへん見通しの良い予測をしていた。

そんなこともあって、第二次征長でも会津は第一線で戦うことはなかったのだが、それがよかったかどうかは分からない。

さらに、あまりにも強くなりすぎた一会桑に薩摩が警戒を深めた。

薩摩にとっては、雄藩連合で国難に対処するのが藩是であるから、天皇・一会桑・将軍の三者連合で天下を壟断するなどもってのほかであると考えたことはいうまでもない。そして、この反発が、薩長同盟に結びついていったのである。

さらに厄介な問題は、兵庫開港問題だった。この年の九月には、四国艦隊が大阪湾に来航したので、幕府は独断で兵庫開港を決めた。一会桑があわてて阻止し、朝廷が関係した老中の官職を剥奪したので、家茂が将軍辞職をほのめかす事件があった。

結局、慶喜が強引に議論を兵庫開港はとりあえず認めないが、条約は勅許するということで議論をまとめたのだが、容保は条約勅許を朝廷に強要することになったのは申し訳ないと守護職辞意を表明して謹慎することになり、孝明天皇と容保、容保と慶喜の蜜月に影がさすことになった。

第二次征長が始まるととりあえず一会桑と幕府は強硬路線で一致したのだが、すでに、慶応2年(1866年)の1月には、現在は同志社大学になっている薩摩藩二本松屋敷を木戸孝允や坂本龍馬が訪れて薩長同盟が結ばれており、4月には大久保利通が大義がないとして公然と出兵拒否を幕府に通告した。

戦闘が始まったのは六月だが、緒戦で周防大島を占領した松山藩がたちまち高杉晋作に蹴散らされ、7月には石州口で浜田城が医者上がりの大村益次郎が指揮する部隊の攻撃で陥落、しかも、この月には将軍家茂が大坂城で病死してしまった。

家茂は江戸を出発するときは、後継者は田安亀之助(のちの家達)だと言い残していたが、このような戦況では子どもが将軍というわけにいかず、慶喜にということになった。しかし、慶喜はさんざん嫌だとごねたあげく、德川家の家督だけを引き受けた。

そして、弔い合戦だと大張り切りで、孝明天皇も石清水八幡宮など七寺七社に勝利の祈祷をさせ、公家の中にあった戦争中止の提案をみずから阻止した。ところが、大坂進発の前日になって、小倉城が高杉晋作らの攻撃で落城し、熊本藩や久留米藩など幕府方にしぶしぶながらもついていた軍勢が引き上げてしまったという報せが入った。

すると慶喜はただちに進発を中止し、諸侯と話し合って善後策を考えたいと言い出した。それを聞いた孝明天皇は「ことのほかの御気色」を示し、二条関白も「勅諚まで出したのに綸言(天皇のお言葉)が左様に出し引きできるものだろうか」と茫然自失となった。松平容保も厳しくこれを論難した書状を送り、家臣たちは「武力を使ってでも考え直してもらおう」と大騒ぎになり、中川宮(のちの久邇宮朝彦王)に勅命で慶喜を出征させてはなどと圧力をかけた。

しかし、そもそも勝ち味のない戦さであり、世論はすっかり厭戦気分で一揆も頻発していた。二条関白も、国事扶助の中川宮も、京都守護職である容保も辞表を出す騒ぎとなった。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと」はこちら
「龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)」はこちら
「龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い」はこちら
「龍馬の幕末日記㊹ 武器商人としての龍馬の仕事」はこちら
「龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話」はこちら
「龍馬の幕末日記㊻ 木戸孝允がついに長州から京都に向う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変」はこちら
「龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊾ 寺田屋で危機一髪をお龍に救われる」はこちら
「龍馬の幕末日記㊿ 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記51 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記52: 会社の金で豪遊することこそサラリーマン武士道の鑑」はこちら
「龍馬の幕末日記53:土佐への望郷の気持ちを綴った手紙を書かされるはこちら
「龍馬の幕末日記54:土佐藩のために働くことを承知する」はこちら
「龍馬の幕末日記55:島津久光という人の素顔」はこちら
「龍馬の幕末日記56:慶喜・久光・容堂という三人のにわか殿様の相性」はこちら
「龍馬の幕末日記57:薩摩の亀山社中から土佐の海援隊にオーナー交代」はこちら
「龍馬の幕末日記58:いろは丸事件で海援隊は経営危機に」はこちら
「龍馬の幕末日記59:姉の乙女に変節を叱られる」はこちら
「龍馬の幕末日記60:「船中八策」を書いた経緯」はこちら
「龍馬の幕末日記61:船中八策は龍馬が書いたものではない」はこちら
「龍馬の幕末日記62:龍馬がイギリス公使から虐められる」はこちら
「龍馬の幕末日記63:イカルス号事件と岩崎弥太郎」はこちら
「龍馬の幕末日記64:慶喜公の説得と下関でのお龍との別れ」はこちら
「龍馬の幕末日記65:山内容堂に龍馬が会ったというのはフェイクニュース」はこちら
「龍馬の幕末日記66:坂本家に5年ぶりに帰宅して家族に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記67:龍馬は大政奉還を聞いて慶喜公に心酔などしてない」はこちら
「龍馬の幕末日記68:大政奉還ののち西郷らは薩摩に向かう」はこちら
「龍馬の幕末日記69:新政体について先手必勝で動かなかった慶喜のミス」はこちら
「龍馬の幕末日記70:福井で「五箇条のご誓文」の作者三岡八郎と語る」はこちら
「龍馬の幕末日記71:徳川慶喜が将軍を引き受けるまでの本当の話」はこちら
「龍馬の幕末日記72:将軍慶喜がめざした日本の姿」はこちら
「龍馬の幕末日記73:慶喜と会津・江戸の幕閣との思惑の違いが明確に」はこちら

「龍馬の幕末日記74:どうして会津は京都守護職を引き受けたのか」はこちら
「龍馬の幕末日記75:どうして会津藩には京都守護職など最初から無理だったのか」はこちら
「龍馬の幕末日記76:会津の京都守護職6年間を総括する」はこちら
「龍馬の幕末日記77:江戸幕府でなく孝明天皇に忠誠を尽くした迷走」はこちら
「龍馬の幕末日記78:高松宮家の財産が徳川家の人々によって相続された事情」はこちら

「龍馬の幕末日記79:新撰組が京都市民から嫌われた当然な理由」はこちら
「龍馬の幕末日記80:京都市民の支持は新撰組でなく志士たちに集まる」はこちら

「龍馬の幕末日記81:遊里で金払いが悪いのも会津不評の原因になった」はこちら