※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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征長戦争が負け戦のまま幕引きになって会津も二条関白も孝明天皇も茫然自失だったが、慶喜はもともとアンチ長州でもないし、それなりの粘り腰を見せ始める。
有力諸侯の意見を聞こうという路線への転換である。それを見た薩摩藩も小松帯刀らが融和に傾く。そして、12月25日には将軍宣下をようやく受けるのだが、13日に孝明天皇が風邪をこじらせて病床につき二五日には崩御されてしまった。
タイミングが良すぎるので暗殺説を唱える人もいるが、病気であったことは間違いなく、陰謀史観は止めにして欲しい。
これが慶喜にとって大打撃だったことはいうまでもないが、慶喜は幕府の軍制改革などに取り組んだり、各国公使と交流する一方、薩摩、越前、土佐、宇和島の四侯を京都に呼んだ。この四侯に慶喜が加わった会議が5月に二条城で開かれ、ここまですべては慶喜ペースだったのに、最後の将軍は欲を出しすぎた。
四侯、とくに薩摩の島津久光は将軍と有力諸侯が対等の形での会議を念頭に置いていたのだが、慶喜にはまるでそんな気がない。かつての一橋慶喜のときなら対等の関係だったかもしれないが、いまや将軍だといわんばかりだった。
また、長州の赦免と兵庫開港とどちらを優先するかで、赦免が先だという諸侯と、開港がが先だという慶喜が対立してしまった。結局、この対立構造がとれないまま、四侯は嫌気がさして帰国してしまった。
長州赦免して慶喜がそんな困るとも思えずバカな話だった。しいていえば、そんなことすれば会津に何されるか分からないというのはあったかもしれない。というのは、その後も、会津は徹頭徹尾、慶喜の足を引っ張り続けるからだ。
征長の中止からあと、松平容保はすっかり政局の中心からはずされてしまった。征長失敗の戦犯だと見られていたし、長州との和平が最大の課題となる中では、長州と仇敵同士である会津の出番はなかった。
もはや会津藩にとって京都に留まるメリットなど何もなかった。守護職を辞めたいと何度も申し入れることになるし、容保の兄の尾張藩德川慶勝からも強い帰国勧告がなされた。
しかし、慶喜にすれば幕府軍の改革の成果がものになるまでは、会津に去られても代わりがない。つまり、この段階では路線変更した慶喜にとって容保や会津藩士はありがたくない存在なのだが、かわりに京都の治安を守ってくれる軍勢がない以上は、逃げられても困るといい状態になってしまった。まことに会津にとって気の毒な立場だったともいえる。
あまりのことに、容保は慶応3年4月8日の書状で「(在京費用に充てるため)米や金をいただいていますが内情は逼迫しています。そのうえ、昨年、大火にて若松城下の過半が焼け、加うるに不作となり、四民飢餓に苦しみ離散している様子です。また、長い在京のために家中の風俗もゆるんでしまい、藩政の改革についても家来にばかりまかせておけませんので何とか帰国を認めていただきたい」といった趣旨を訴えた。
とくに、親が不在の者が多い会津の町では少年たちの非行みたいな問題も出てくる。
そうしたところ、老中たちからは、「そういう事情なら帰国したいというのはもっともだと思う。たしかに、会津は東北に偏在して不便であるから、卿を駿府に移すことにする。したがって、帰国したいのは分かるが、しばらく待っているように」と返事が来て、さらに、家臣を駿河に派遣してお国替えの準備にかかるようにと指示があった。
もともと東北を領地とする松平肥後守家中に京都守護職をつとめさせることに無理があったというのは、すでに紹介した。
はじめからそうすれば良かったのだが、ようやく幕府が動いてはくれたのである。しかし、この移封はすぐに大政奉還になったので実現することはなかった。
これは会津や東北の人々にとっては誠に残念なことだった。このときに、会津藩士たちが駿河に移っていたら、戊辰戦争はなかっただろうから東北が戦場になることはなかったのにと誠に惜しまれる。
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