龍馬の幕末日記85:「新政府綱領」の○○○は慶喜なのか

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

近江屋事件が起きたのは11月15日であるが、その二週間ほど前から、龍馬とそれをめぐる人たちの動向を順に追っていこう。

写真AC:編集部

龍馬は10月24日、山内容堂から松平春嶽への手紙をもって福井へ旅立った。龍馬が福井に着いたのは28日だが、このあいだの、26日には、朝廷は慶喜にしばらく外交・内政をつづけるように沙汰を出している。

その一方、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通の三名が「倒幕の密勅」をもって鹿児島についた。

27日には、朝廷は慶喜の将軍返上を却下した。この日に、尾張藩主徳川慶勝が京都に入っている。兵は連れていない。

28日には、山口で長州藩が出兵することのコンセンサスを固めた。福井では、龍馬は藩の監察である、村田氏寿と会っている。この村田は戊辰戦争のあと、会津藩の戦死者の埋葬などを指揮した人物である。

戦死者の埋葬については、会津では長州が野ざらしにしたとかいうフェイク史観が流布されたりしているが、野ざらしにもせず丁寧に扱っているし、責任者はこの越前の村田であって、長州とは関係ない。会津サイドの長州への罵詈雑言はほぼすべてフェイクだ。

 29日には、横浜にいた英国外交官のアーネスト・サトウが大政奉還の建白の写しを後藤象二郎から受け取った。

30日。福井のたばこ屋旅館に由利公正が訪ねてきて、坂本龍馬と懇談。龍馬はとくに、新政府の財政樹立策を相談している。この点は大事なことで、龍馬は幕府から全面的には領地を取り上げないで、金座・銀座を江戸から京都に移すなどして、通貨発行権の掌握を通じて円満に政権以降を実現したいという考えを独自性のある提案としてもっていたのである。これは、すぐのちに、説明する。

11月1日には、龍馬は藩主松平茂昭と会い隠居している春嶽の上洛を要請。

京都では中岡慎太郎が、倒幕派の公家である正親町三条実愛を訪ねて武力倒幕のてはずの打ち合わせをしている。また、大政奉還に不満な松平容保が慶喜に進退伺いをしている。

 11月2日には後藤象二郎が、容堂の上洛を促すために、京都を出発して土佐へ向かった。

11月3日。龍馬は福井を出発して京都に向かい、5日には京都に入っている。

このころの、いつか分からないが、龍馬は「新政府綱領八策」を書いている。福井で由利公正らの知恵を借りたものだ。

新政府綱領八策(国立国会図書館/Wikipediaより)

【新政府綱領八策】

①天下有能の人材を招いて顧問にする。

②有材の諸侯を選んで朝廷の官職に任命し、必要でない官職は廃する。

③外交を議定する。

④法律を選定し、新たに憲法を制定する。法体系が定まれば、諸侯はこれに基づいて家臣を統率する。

⑤議会(上院下院)を設立する。

⑥陸軍局を設立する。

⑦近衛兵を組織する。

⑧金銀交換レートを外国と同じくする。

これら項目は二、三の学識者と検討して、諸侯会議の日を待って云々。

○○○自ら盟主となり、これを天皇(朝廷)に奏上し、初めて天下万民に公布する云々。

朝廷に反抗する者は断然として征討する。特権階級である権門貴族といえども容赦しない。

慶応丁卯月十一月   坂本直柔

ここの、○○○が誰を想定したのかは、不明である。徳川慶喜であり、新政府の中心に慶喜を据えることを意図したものと言いたい人もいるのだが、もし、それを前提にすれば、薩摩や長州が同意するはずがない。そこで、龍馬は幕府と組んで薩長と対決するつもりだったので、薩摩に殺されたとかお粗末なお笑い史観を披露する人もいる。

しかし、それは、ありえない。何度も書いているが、龍馬の価値は長州と話ができるフィクサーなのである。そして、妻のお龍をわざわざ下関にこのとき住ませているのである。つまり龍馬は半分くらい長州人なのである。でないとしても、長州に人質を出している立場だ。そこを説明せずに龍馬が薩長、とくに長州の意に沿わない動きなどするはずもないのである。あるいは、中岡慎太郎らとも正面衝突するだろうし、海援隊の中もまとまるはずがない。

ここのところは、誰にすればいいかを議論するため、あるいは、誰がいいと思うという議論を引き出すための○○○なのであろう。人事のことである。誰にもこれは自分のことだと期待できるほうがいい。

そういう意味では、「大樹公(慶喜さん)どうですか」と幕府側の人間に言ったり、それが容堂でも「それで関係者を納得できるのかい」と遠慮することになり、そのなかで落としどころを考えようというのかもしれない。

あるいは、慶喜や幕府方に気を持たして、薩長の兵力が上洛する時間稼ぎだったかもしれない。なにしろ、11月12日には長州藩先鋒隊が尾道まで進出。13日には島津茂昭が鹿児島を大兵力と友に進発しているのである。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら
「龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊱ 越前に行って横井小楠や由利公正に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 加尾と佐那とどちらを好いていたか?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊲ 8月18日の政変で尊皇攘夷派が後退」はこちら
「龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩」はこちら
「龍馬の幕末日記㊴ 勝海舟と欧米各国との会談に同席して外交デビュー」はこちら
「龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ」はこちら
「龍馬の幕末日記㊶ 勝海舟と西郷隆盛が始めて会ったときのこと」はこちら
「龍馬の幕末日記㊷ 龍馬の仕事は政商である(亀山社中の創立)」はこちら
「龍馬の幕末日記㊸ 龍馬を薩摩が雇ったのはもともと薩長同盟が狙い」はこちら
「龍馬の幕末日記㊹ 武器商人としての龍馬の仕事」はこちら
「龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話」はこちら
「龍馬の幕末日記㊻ 木戸孝允がついに長州から京都に向う」はこちら
「龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変」はこちら
「龍馬の幕末日記㊽ 薩長盟約が結ばれたのは龍馬のお陰か?」はこちら
「龍馬の幕末日記㊾ 寺田屋で危機一髪をお龍に救われる」はこちら
「龍馬の幕末日記㊿ 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記51 長州戦争で実際の海戦に参加してご機嫌」はこちら
「龍馬の幕末日記52: 会社の金で豪遊することこそサラリーマン武士道の鑑」はこちら
「龍馬の幕末日記53:土佐への望郷の気持ちを綴った手紙を書かされるはこちら
「龍馬の幕末日記54:土佐藩のために働くことを承知する」はこちら
「龍馬の幕末日記55:島津久光という人の素顔」はこちら
「龍馬の幕末日記56:慶喜・久光・容堂という三人のにわか殿様の相性」はこちら
「龍馬の幕末日記57:薩摩の亀山社中から土佐の海援隊にオーナー交代」はこちら
「龍馬の幕末日記58:いろは丸事件で海援隊は経営危機に」はこちら
「龍馬の幕末日記59:姉の乙女に変節を叱られる」はこちら
「龍馬の幕末日記60:「船中八策」を書いた経緯」はこちら
「龍馬の幕末日記61:船中八策は龍馬が書いたものではない」はこちら
「龍馬の幕末日記62:龍馬がイギリス公使から虐められる」はこちら
「龍馬の幕末日記63:イカルス号事件と岩崎弥太郎」はこちら
「龍馬の幕末日記64:慶喜公の説得と下関でのお龍との別れ」はこちら
「龍馬の幕末日記65:山内容堂に龍馬が会ったというのはフェイクニュース」はこちら
「龍馬の幕末日記66:坂本家に5年ぶりに帰宅して家族に会う」はこちら
「龍馬の幕末日記67:龍馬は大政奉還を聞いて慶喜公に心酔などしてない」はこちら
「龍馬の幕末日記68:大政奉還ののち西郷らは薩摩に向かう」はこちら
「龍馬の幕末日記69:新政体について先手必勝で動かなかった慶喜のミス」はこちら
「龍馬の幕末日記70:福井で「五箇条のご誓文」の作者三岡八郎と語る」はこちら
「龍馬の幕末日記71:徳川慶喜が将軍を引き受けるまでの本当の話」はこちら
「龍馬の幕末日記72:将軍慶喜がめざした日本の姿」はこちら
「龍馬の幕末日記73:慶喜と会津・江戸の幕閣との思惑の違いが明確に」はこちら

「龍馬の幕末日記74:どうして会津は京都守護職を引き受けたのか」はこちら
「龍馬の幕末日記75:どうして会津藩には京都守護職など最初から無理だったのか」はこちら
「龍馬の幕末日記76:会津の京都守護職6年間を総括する」はこちら
「龍馬の幕末日記77:江戸幕府でなく孝明天皇に忠誠を尽くした迷走」はこちら
「龍馬の幕末日記78:高松宮家の財産が徳川家の人々によって相続された事情」はこちら

「龍馬の幕末日記79:新撰組が京都市民から嫌われた当然な理由」はこちら
「龍馬の幕末日記80:京都市民の支持は新撰組でなく志士たちに集まる」はこちら

「龍馬の幕末日記81:遊里で金払いが悪いのも会津不評の原因になった」はこちら
「龍馬の幕末日記82:慶喜の一人芝居の影でドツボにはまった会津」はこちら
「龍馬の幕末日記83:会津から駿河にお国替えする案が浮上」はこちら
「龍馬の幕末日記84:大政奉還で茫然自失の会津藩」はこちら