※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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近江屋事件が起きたのは11月15日であるが、その二週間ほど前から、龍馬とそれをめぐる人たちの動向を順に追っていこう。
龍馬は10月24日、山内容堂から松平春嶽への手紙をもって福井へ旅立った。龍馬が福井に着いたのは28日だが、このあいだの、26日には、朝廷は慶喜にしばらく外交・内政をつづけるように沙汰を出している。
その一方、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通の三名が「倒幕の密勅」をもって鹿児島についた。
27日には、朝廷は慶喜の将軍返上を却下した。この日に、尾張藩主徳川慶勝が京都に入っている。兵は連れていない。
28日には、山口で長州藩が出兵することのコンセンサスを固めた。福井では、龍馬は藩の監察である、村田氏寿と会っている。この村田は戊辰戦争のあと、会津藩の戦死者の埋葬などを指揮した人物である。
戦死者の埋葬については、会津では長州が野ざらしにしたとかいうフェイク史観が流布されたりしているが、野ざらしにもせず丁寧に扱っているし、責任者はこの越前の村田であって、長州とは関係ない。会津サイドの長州への罵詈雑言はほぼすべてフェイクだ。
29日には、横浜にいた英国外交官のアーネスト・サトウが大政奉還の建白の写しを後藤象二郎から受け取った。
30日。福井のたばこ屋旅館に由利公正が訪ねてきて、坂本龍馬と懇談。龍馬はとくに、新政府の財政樹立策を相談している。この点は大事なことで、龍馬は幕府から全面的には領地を取り上げないで、金座・銀座を江戸から京都に移すなどして、通貨発行権の掌握を通じて円満に政権以降を実現したいという考えを独自性のある提案としてもっていたのである。これは、すぐのちに、説明する。
11月1日には、龍馬は藩主松平茂昭と会い隠居している春嶽の上洛を要請。
京都では中岡慎太郎が、倒幕派の公家である正親町三条実愛を訪ねて武力倒幕のてはずの打ち合わせをしている。また、大政奉還に不満な松平容保が慶喜に進退伺いをしている。
11月2日には後藤象二郎が、容堂の上洛を促すために、京都を出発して土佐へ向かった。
11月3日。龍馬は福井を出発して京都に向かい、5日には京都に入っている。
このころの、いつか分からないが、龍馬は「新政府綱領八策」を書いている。福井で由利公正らの知恵を借りたものだ。
【新政府綱領八策】
①天下有能の人材を招いて顧問にする。
②有材の諸侯を選んで朝廷の官職に任命し、必要でない官職は廃する。
③外交を議定する。
④法律を選定し、新たに憲法を制定する。法体系が定まれば、諸侯はこれに基づいて家臣を統率する。
⑤議会(上院下院)を設立する。
⑥陸軍局を設立する。
⑦近衛兵を組織する。
⑧金銀交換レートを外国と同じくする。
これら項目は二、三の学識者と検討して、諸侯会議の日を待って云々。
○○○自ら盟主となり、これを天皇(朝廷)に奏上し、初めて天下万民に公布する云々。
朝廷に反抗する者は断然として征討する。特権階級である権門貴族といえども容赦しない。
慶応丁卯月十一月 坂本直柔
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ここの、○○○が誰を想定したのかは、不明である。徳川慶喜であり、新政府の中心に慶喜を据えることを意図したものと言いたい人もいるのだが、もし、それを前提にすれば、薩摩や長州が同意するはずがない。そこで、龍馬は幕府と組んで薩長と対決するつもりだったので、薩摩に殺されたとかお粗末なお笑い史観を披露する人もいる。
しかし、それは、ありえない。何度も書いているが、龍馬の価値は長州と話ができるフィクサーなのである。そして、妻のお龍をわざわざ下関にこのとき住ませているのである。つまり龍馬は半分くらい長州人なのである。でないとしても、長州に人質を出している立場だ。そこを説明せずに龍馬が薩長、とくに長州の意に沿わない動きなどするはずもないのである。あるいは、中岡慎太郎らとも正面衝突するだろうし、海援隊の中もまとまるはずがない。
ここのところは、誰にすればいいかを議論するため、あるいは、誰がいいと思うという議論を引き出すための○○○なのであろう。人事のことである。誰にもこれは自分のことだと期待できるほうがいい。
そういう意味では、「大樹公(慶喜さん)どうですか」と幕府側の人間に言ったり、それが容堂でも「それで関係者を納得できるのかい」と遠慮することになり、そのなかで落としどころを考えようというのかもしれない。
あるいは、慶喜や幕府方に気を持たして、薩長の兵力が上洛する時間稼ぎだったかもしれない。なにしろ、11月12日には長州藩先鋒隊が尾道まで進出。13日には島津茂昭が鹿児島を大兵力と友に進発しているのである。
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