龍馬の幕末日記86:近江屋事件前日の焦点は「慶喜が何百万石朝廷に出すか」だった。

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

三条実美 Wikipediaより

昨日、○○○は徳川慶喜だったとは限らなかったという話をしたが、もう少し、詳しく解説しよう。

龍馬の作戦は、慶喜をなんとか、会津など頑迷な守旧派から切り離したいということだ。それなら、居場所を確保してやってもいいと考えていたわけである。それは、松平春嶽も同じ思いだった。幕府の中にも、それでいいと思う人間も多かった。

どっちにしても枠組みははっきりしていた。幕府の存続はあり得ない。新しい政府を組織しなくてはならない。その下に、上院(議奏)と下院(参議)を置くことにもコンセンサスがあった。

ただし、この上院と下院というのは、議会と言うよりは、合議制の経営委員会みたいなものだ。つまり、上院は監査役会のようなもので、下院は執行委員会である。

ところが、ちょっと、変なのは、会長や社長にあたるものを置くのか、置かないのかである。大政奉還の直後に戸田雅楽(三条実美の秘書のような立場ののちの尾崎三良)がだした「新官制擬定書」では、関白と内大臣はそのまま置くような感じである。

つまり、関白は二条関白がそのまま留任するようでもあるが、私は、二条でつとまるはずないので、太宰府にいた三条実美が帰京したら、譲らすつもりだったとみる。

つまり、三条実美が大統領で徳川慶喜が副大統領のような感じになる。そして、上院は島津、毛利、山内、伊達宗城、鍋島、春嶽の諸大名と岩倉、東久世、嵯峨、中山忠能で、下院は小松、西郷、大久保、木戸、後藤、三岡八郎、横井平四郎、長岡良之助というから、この下院で権力を取ってしまえということだ。

ただ、不思議なのは、旗本からも、公家周辺からも誰も参議にながないことだ。どっちにしても、この場合には、関白と内大臣には実権はあまりないことになる。

また、後藤象二郎は、朝彦親王に上院の総裁に朝彦親王が就任すればいいと勧めている。

朝彦親王 Wikipediaより

一方、西周は慶喜に対し、徳川氏が行政府の長と上院の議長を兼ねるという案を提案していた。およそ、実現しそうもない案だが、龍馬たちにしてみれば、大政奉還を撤回させようという方向での会津などを抑え込むためには、幕府の中に、そういう甘い見通しで大政奉還に賛成する勢力が増えればいいと思ったのだろう。

とはいっても、幕府領400万石をどうするか、旗本たちは誰の家来になるのかという、大問題があるわけだが、龍馬は100万石くらいを上納させて、あとは金座・銀座を新政府の下において、紙幣でも発行して、当座を乗り切るとか甘いこと考えていたようにも思う。

近江屋事件のあとの政局も、慶喜が財源をどの程度まで、新政府に出すかを主たる争点にして動いたといっても良いのである。もちろん、薩摩などいずれは徳川家からみぐるみ奪うつもりなのであるが、過渡期的には新政府に金がなく、とりあえず、慶喜が納得できる額を出すのなら受けただろうと思う。

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