龍馬の幕末日記88:三島由紀夫の高祖父・永井尚志がキーパーソン

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

永井尚志という慶喜の官房長官のような立場だった人がいる。三島由紀夫の高祖父である。ただし、曾祖父が尚志の養子だったので血はつながっていない。尚志は、戦国時代の三好三人衆の一族である三好為三が旗本になり、その子孫である700石取りの幕臣・三長済の次男で、旗本仲間の永井家の養子となって大審院の判事を務めた。

永井尚志(Wikipediaより)

これと常陸宍戸藩松平家の姫とのあいだに生まれた娘が夏子で、兵庫県加古川市出身で樺太庁長官や福島県知事をつとめた平岡定太郎と結婚した。生まれた子が農林官僚の梓で、その子の公威が作家・三島由紀夫だ。夏子は幼少期の公威を手元に置いて教育し、文学や演劇への素養を身につけさせたとされる。

尚志と血はつながってないが、永井家の家風という意味では、なにがしか、引き継がれたものもあるかもしれない。

尚志は三河奥殿藩主松平家(明治になって大給に改姓)の出身で永井家に養子に入った。永井家は三河譜代で、源義朝をだまし討ちにして殺した長田忠致の兄である長田親致の子孫で、不忠の家名を嫌った家康の命で改姓している。櫛羅、加納、高槻藩主は同族だ。

尚志は英明で知られ、長崎海軍伝習所の総監理、外国奉行、軍艦奉行、京都町奉行、大目付、若年寄とエリート官僚として活躍し、高い交渉能力で慶喜の信頼を得た。しかし、維新後は榎本武揚とともに箱館にわたり、新政府に対抗したが、早々に降伏して榎本に降伏を勧める側にたったという人物だ。

人当たりはよく、新撰組などからも、物わかりが良いと思われていたらしい。いずれにせよ、その経歴から、勝海舟の兄貴分ともいえ、龍馬にとって近づきやすかった。また、慶喜が旧に方向転換して大政奉還などして右往左往するなかで、側近にあって、この方針転換を容認する珍しい存在でもあった。

この永井を龍馬は11月10日に訪問したが会えず、11日に再訪して会談している。さらに永井とは近江屋事件の前日の14日にも会っている。

永井は狸だからどこまで本心を龍馬に語ったのか不明であるが、慶喜がこの時点でもっとも信頼していたらしい側近の永井に龍馬が接近して知恵を付けているというのが、会津藩幹部らを焦らせたのは当然すぎて議論の余地がない。

会津藩は大政奉還にも反対だった。しかも、事前の土佐からの打診では、形式的なものだとか聞いていたのに、徳川家が存続できるかすら怪しくなってきた。

まして、龍馬らの構想では、慶喜は将軍とか徳川家代表でなく、一個人として国政になんらかの形で参加するというだけの話である。西周の案のように、幕府が看板を掛け替えて国政を仕切るという可能性もなくなってきた。

そして、永井が複数回、龍馬と会っているというのは、具体案がそれなりに、俎上に上っていた可能性が高い(逆に永井がその案を潰すために龍馬を殺させたという説もないわけでないが、永井が龍馬暗殺を検討したとすれば、大政奉還ができなかったときのことのようだ。龍馬は大政奉還を支持していたが、できなかった場合には即、倒幕を実行するといっていたので、永井がそういう判断をしている可能性はあった。やはり龍馬よりは妥協的な後藤象二郎も、慶喜の決断について、実態より曇りのないものであるようなことをいって龍馬をぬか喜びさせている)。

そうなると、会津藩の立場はどうなる、また、会津藩のなかで、早期撤退を主張する国元と対立して未練がましく京都残留を主導した公用方(京都での容保の補佐機関)は、藩内ですら粛清されるおそれがある、というより、そうなることが確実だったのだから、絶体絶命に追い込まれたのである。

こういう情勢のなかで、迎えたのが、11月15日である。

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