龍馬の幕末日記89:暗殺犯・佐々木只三郎の一族は明治日本の名門に

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

若松城 wikipediaより

「会津藩のなかで、早期撤退を主張する国元と対立して未練がましく京都残留を主導した公用方(京都での容保の補佐機関)は、藩内ですら粛清されるおそれがある、というより、そうなることが確実だったのだから、絶体絶命に追い込まれたのである」と書いた。

もう少し詳しく言うと、どこの藩でも、重臣たちは国元と江戸屋敷に分かれて勤務している。殿様が参勤交代で一年ごとに行ったり来たりしているのだから、江戸にいるときは江戸家老、国元にあるときは国家老が社長室長みたいなものだ。

国家老のほうが地位は上であることが普通だが、江戸家老は奥方や若君とも日常的に顔を合わせているのだから、実質的には殿様に近いとも言える。

しかし、幕末の会津藩の場合には、容保は六年間も京都にいたのだから、京都での側近が実質的には容保に影響力をもっている。

そして彼らは、京都にできるだけ殿様にいて欲しいわけである。それに対して、国元や江戸の者たちは一刻も早く帰って欲しい。

まして、大政奉還などという会津の方からすればとんでもないことになって6年間なにをしてたのか、まさに苦労が水疱に期したわけだから、国元や江戸からすれば、「それみたことか」である。

会津藩では公用方という組織を作った。これは、家老・田中土佐が率いた先遣隊を中心に組織されたもので、他藩や朝廷との調整にあたった。ここでは、身分差別が極端な会津藩では異例な抜擢が行われ、中下級武士からも登用された。

この人事を主導したのは、守護職就任支持派の横井主税で、上級藩士が務めるのが公用人、下級藩士が当てられる公用方といわれた。秋月悌次郎と、新選組結成や広沢富次郎であり、新島八重の兄である山本覚馬も彼らと行動をともにしていた。上級武士では横山や野村左兵衛、あるいは手代木直右衛門が公用人に就任した。

そして、彼らが、半グレみたいな近藤勇や幕府が組織した見廻組を統括して超法規的警察活動(変な言葉だが)をしていたのである。

ともかく、慣例無視のでたらめ遣っていたわけである。そんなことも、もし、容保が京都を退去したら、粛清されて切腹でもさせられそうな立場だったのである。そういう立場からすると、永井尚志に取り入って、慶喜はなんらかの形で新政府に入るが、個人だけで幕府は解体、会津も居場所がなくなるというような線で話が進んだら、それは彼らの死に直結するから必死だった。

見廻組というのは、見廻役という京都の治安維持のために幕府が置いた役職の下にある組織である。見廻役は飯田藩主堀親義であった。

ところが、実際には見廻役でなく守護職がいろいろ口出しをし(堀親義が無能だったからでもあるが)、とくに公用方の指示に従うようになっていた。

しかも、見廻組の与頭だった佐々木只三郎は、会津藩士の佐々木源八の三男で、親戚の旗本・佐々木弥太夫の養子となっていた。神道精武流を学び幕府講武所の剣術師範を務めたらしい。

この佐々木只三郎の実兄が、会津藩京都公用人の一人、会津藩主・松平容保に従う兄の手代木直右衛門で、そもそも、近藤勇に新撰組を結成させて会津藩京都公用方の傘下に置かしたのも佐々木なのであるし、清河八郎をころしたのも佐々木だ。

どうして、新撰組でなく見廻組が選ばれたのかは不明だ。ひとつ考えられるのは、河原町通より東の治安維持は京都守護職、西は見廻役の分担だったので、近江屋は見廻役の管轄地域だったというだけかもしれない。あるいは、近藤勇が後藤象二郎と懇意になってたので、さけたこともまったく考えられないわけでもない。

しかし、それより、福井の松平春嶽から支持された龍馬の永井尚志への工作が現実味をもってきたので、失敗を許されないということで、格上の見廻組が選ばれたのであろう。

なにしろ佐々木只三郎は旗本なのだから、武士かどうかすら怪しげな近藤勇とは何段階も格が違う。そして、なにより、新撰組を指揮下に置く手代木直右衛門の実弟だから、よほどこの仕事が高い政治的な意思で行われたかということだ。

最終的な指示が、松平容保かその弟の桑名藩主松平定敬のどちらの指示によったかははっきりしない。

手代木直右衛門は、維新後、高知県副知事にあたる権参事や岡山市長にあたる区長をつとめて、明治37年に死んだのだが、その前に事件の真相を遺言している。

それを、大正12年(1923年)に、養嗣子が『手代木直右衛門伝』を私家版で刊行したが、没する数日前に、「坂本を殺したるは実弟只三郎なり」「土佐の藩論を覆して倒幕に一致せしめたるをもって、深く幕府の嫌忌を買ひたり」ので「某諸侯の命」によって只三郎が3人で龍馬を殺害したとしている。

ここでは、「某諸侯」は松平定敬だとしているのだが、昭和13年(1938年)に佐々木只三郎の子孫の依頼により、高橋一雄がまとめた『佐々木只三郎伝』では、指示したのは容保だったとしている。どちらにしても、容保ないし定敬の指示であったことは、嘘を言う理由が直右衛門にないのだから、間違いあるまい。

「土佐の藩論を覆して倒幕に一致せしめたるをもって、深く幕府の嫌忌を買ひたり」ということの意味は、普通に考えたら、大政奉還そのものからすべての経緯であろう。

かくして、会津藩の意思として龍馬を誅することは決まった。その名目がなんだったかは分からない。なぜなら、捕縛か斬るかということになっていただが、もし捕縛したら、逮捕の理由がいる。

それは、おそらく、伏見の寺田屋で発砲して幕吏を傷つけたことだったのではないか。しかし、殺してしまって、誰がころしたか公表しなかったのだから、理由なんかいらない。ただ、動機は龍馬の永井尚志への工作を潰すこと以外にはタイミング的にありえないだろう。会津藩は、慶喜が容保らを切り捨てて、薩長や越前に取り込まれるのを不都合としたのである。

これは、公務、警察活動なのか?それは、CIAが名乗らず密かに誰かを殺すのが警察活動というならそうであろう。

なお、手代木直右衛門の次女中枝は米沢藩士・甘粕鷲郎に嫁いだが、これは大杉栄を殺した甘粕正彦の兄である。長女の初(初子)は後に新島八重の養女となり、その子の新島襄次に新島家を継がせようとしたが若死にしたのでかなわなかった。このように龍馬暗殺の下手人一族はなかなか明治の新時代をしたたかに生きたのである。

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