※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)
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犯人は新撰組だと信じられた。その後、戊辰戦争などで多くの疑うべき人物が死んだのでますます糾明は難しくなったが、生き残りを尋問したところ、新撰組の大石鍬次郎が犯人は「見廻組の今井信郎、高橋某ら四人」と証言した。
今井も「見廻組組与頭である佐佐木只三郎以下、七人である」と自白したが、今井以外は鳥羽伏見の戦いで戦死していたので、それ以上の追求はあきらめざるを得なかった。ただし、今井は見張り役だったといい、それが認められて禁固一年半で赦免されたが、その時の裁きをしたのは佐佐木高之だった。
この頃は、戊辰戦争も終わり国内融和を図ることになり、松平容保すら赦免されたのだから、それほど不均衡ではない。
さらに、その後、すでに何度も書いているように、見廻組の佐々木只三郎に指示を出した実兄の手代木伝右衛門が遺言で真相を説明し、さらに、大正四年になって元見廻組の渡辺篤が自分も犯人の一人と名乗り出たので、もはや疑う余地はないはずなのだが、珍説を唱える人が多くてひどいものだ。
それでは、なぜ、新撰組が疑われたかと言えば、ひとつには、龍馬を暗殺するとすれば新撰組だともともと警戒されていたこと、そして、それが頭にあるものだから、中岡慎太郎はじめ、新撰組の犯行を前提に話すものが多く、さらにそれらに影響されて、土佐藩藩邸が断定的に新撰組だといったせいである。
まず、中岡慎太郎は、「こなくそ」と暗殺犯でいったものがいると言い、それは四国の者だと考えられた。また刀の鞘の遺留品があり、それを伊藤甲子太郎がそれを新撰組のものではないかといい、さらに、18日にはその甲子太郎たちは新撰組に襲われて死んでしまった。
土佐藩の谷干城と毛利恭助が、現場に残されていた鞘を薩摩藩邸にもっていったが、御陵衛士の篠原泰之進、内海次郎らが新撰組で伊予出身の原田左之助のものであるといい、ますます新撰組が犯人だと信じる人が増えた。
さらに、陸援隊のなかに新撰組からの間諜がはいっているのも分かった。
そこで土佐藩重役寺村左膳も当日の日記に「多分、新撰組等の業なるべしとの報知也」と記している土佐藩ではすっかり新撰組だと決めつけた。そして、寺村は福井藩に対しても新撰組だといい、新撰組を解散させてはという声も出てきた。
大久保利通も11月19日に岩倉具視に「第一、近藤勇が所為と察せられ申し候」と述べている。こうしたなか、11月23日には、島津忠義に率いられた薩摩兵3000人が入洛し、政局は一気に緊迫してきた。長州兵も25日に三田尻を発し、幕府は絶体絶命に近づいた。
こうしたなかで、11月26日に永井尚志の命で新選組の近藤勇は取調べを受けた。永井はおそらくこの時点では見廻組が真犯人であることは聞いたのだろうが、それを人には言わなかったようだ。
永井も暗殺指令が、会津藩首脳から出ているとなると、それを糾弾するというのも言いにくくなったのである。
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