龍馬の幕末日記94:龍馬暗殺から鳥羽伏見の戦い前夜まで

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

永井尚志 Wikipediaより

薩摩藩の要求によって、慶喜側近のが、新撰組の近藤勇に、龍馬暗殺について尋問を受したのは、11月26日になってのことだ。近藤は強く否定したというが、私は見廻組の犯行であることは、話したか臭わしたかだろう。

そのあと、永井がさらなる究明をしなかったのは、会津藩最高首脳の意向でしたといわれたからだと思う。そう聞いてしまえば、ことを荒立てようがないからだ。

そして、もうこのときには、王政復古へ向けて動きは急展開していた。もし、龍馬がいたら、新政府の財源として慶喜が100万石以上のものを出す話をまとめたかもしれないが、もはや、テロも怖いので、命がけで、財政資金供出と引き替えに、慶喜の一諸侯としての参加を認めようという取引は難しくなっていた。

慶喜に実権をかなり認めようなどという意見は、薩長などが承知しないし、土佐だって、山内容堂はそれでいいかもしれないが、藩内勤王派が承知するはずがない。

一方、龍馬死すという悲報は、徐々にあちこちに伝わっていった。本日は、その政局と近江屋事件の情報の拡散とがどういうことになっていたか、王政復古あたりまで簡単に並べて見よう。

11月
15日 近江屋事件で龍馬暗殺
17日 大坂からも海援隊・陸援隊関係者京に入り東山で合同葬
18日 御陵衛士伊藤甲子太郎が新撰組に殺される。
19日 新撰組犯行説が主流に
23日 薩摩軍入洛
26日 薩摩の要求で永井尚志が新撰組から事情聴取
27日 長崎に近江屋事件伝わる
29日 長州軍が芦屋に上陸

12月
2日 長崎から下関に事件が知らされお龍にも知らされる
西郷から後藤に小御所会議の開催を通知
5日 太宰府で坂本・中岡の慰霊祭
6日 小御所会議について福井藩から慶喜に説明
7日 陸奥宗光らが紀州藩と警護の新撰組を襲う(天満屋事件)
8日 小御所会議で長州、三条、岩倉の処分解除決定
9日 宮中警護が会津・桑名から薩摩・土佐・広島・越前・尾張に交代
王政復古・新政府樹立・慶喜への辞官納地要求決定
摂関・将軍・京都守護・所司代・町奉行廃止
10日 長州軍・東福寺に入る
福井・尾張藩主が慶喜に前日 の決定を通知
11日 慶喜が会津の暴発を怖れて大坂に退去
新撰組にも退去命令
大坂で「ええじゃないか」最高潮
12日 長州軍が相国寺へ入る
慶喜を迎え、大阪城内騒然
14日 慶喜が辞官納地拒否・外交団に事情説明
このころ江戸に龍馬の死が伝わる
23日 海援隊・陸奥宗光が英国に新政権承認を打診
25日 江戸で庄内軍が薩摩藩邸を襲う
27日 三条実美ら京に復帰
28日 会津などの圧力に屈し慶喜が入京を許可

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