龍馬の幕末日記95:五稜郭陥落ののち見廻組と新撰組の真相が判明

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

五稜郭 Wikipediaより

王政復古のクーデター決行までに、龍馬という仲介者を失った慶喜は先手を打って新政府での居場所を確保することができなかった。妥協を嫌う会津の望み通りだった。

しかし、それでも慶喜は辛抱強く、会津の暴発を抑えることに腐心した。福井の松平春嶽や尾張の徳川慶勝が時間を稼いで薩長が妥協策を出すのを待つように説得したのである。

慶喜は京での対決を避け、大坂に下り、そこから条件闘争を粘り強くしようとした。これに困った西郷隆盛は江戸でこれみよがしに騒動を起こさせ、挑発したところ、庄内藩が三田藩邸を攻撃した。

それに呼応しようと大坂の会津藩兵などが盛り上がり、討薩だといって上洛に踏み切った。かつて、長州が会津排除をうたって禁門の変を起こしたことの裏返しであったが、長州が会津だけを敵と言っても通用しなかったのと同じで、今度は、薩長土に錦の御旗が与えられ敗戦した。

この間、仮病で寝ていた慶喜は、自分が出陣すると宣言したうえで、松平容保と定敬という獅子身中の虫を連れ出して江戸に逃げ帰って、うまく、最悪の事態から脱出するのに成功した。

慶喜から江戸を追放された容保は、会津へ帰って謹慎したが、仙台藩や米沢藩が出した、容保らの蟄居、家老の切腹、減封といった妥協案を蹴ってるうちに官軍の参謀世良修蔵暗殺事件をきっかけに会津攻防戦が戦われたが、攻撃の中心になったのは薩長でなく板垣退助ら土佐藩兵だった。

一方、松平定敬は桑名藩内で養父によるクーデターで藩主の地位を追われ、帰国命令を無視して五稜郭で榎本らとともに戦った。ここに、新撰組や見廻組の残党がおり、五稜郭陥落後に彼らを取り調べて真相がほぼ明らかになったのである。

そこまでの経緯は以下の通りだ。その続きは、明日書く。

慶応4年

1月

1日 旧幕府軍大坂城を出立し「討薩」を訴える

3日 薩摩・長州・土佐を官軍とし錦旗を与える

鳥羽伏見の戦い

新撰組敗退

4日 山内容堂は発砲を禁止するが土佐藩兵は戦闘に積極参加

東寺に錦旗が掲げられる

敗残の旧幕府兵の入城を老中が城主の淀城が入城拒否

会津藩・新撰組の死者多数。このころ、佐々木只三郎が負傷。

6日 病気を口実に寝ていた慶喜が出陣を宣言

淀川北岸に布陣していた旧幕府側の津藩が寝返り対岸の旧幕府軍を砲撃

慶喜が容保・定敬を拉致して城内から海上に脱出

7日 旧幕府軍の退却始まる

9日 大坂城を官軍が占領

12日 慶喜が江戸城に入る。和歌山で静養中の佐々木只三郎が死去。兄の手代木直右衛門が看取る。

 

2月

12日 慶喜が江戸城から寛永寺に

16日  慶喜が松平容保と定敬に登城禁止と江戸からの退去命令

 

3月

14日 江戸城総攻撃中止

このころお龍が長州三吉慎蔵の斡旋で高知の坂本家へ。千屋寅之助とお龍の妹・    君枝と結婚。

 

4月

3日 近藤勇が偽名で官軍に投降するが彦根藩士渡辺九郎左衛門に見破られる

11日 江戸城開城。慶喜が水戸へ向かう

25日 近藤勇処刑。土佐谷干城らが主導。

 

9月22日 若松城落城。手代木直右衛門は板垣退助と停戦交渉に当たる。

 

明治2年

5月22日 五稜郭開城

11月 兵部省軍務局糾問所の取り調べて、新撰組の隊員が見廻組であると新撰組内部で通達がまわされたといい、見廻組・今井信郎が近江屋事件の顛末を自白し細かい顛末が明らかに。

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