龍馬の幕末日記99:戊辰戦争で会津の民衆は官軍に協力した

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)、『「会津の悲劇」に異議あり【日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか】』 (晋遊舎新書 S12)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

若松城 wikipediaより

戊辰戦争が終結したのち、版籍奉還が行われたが、これは薩長土肥の藩主が連署して上表したものである。これに伴って地方知行は全廃され、蔵米知行とされた。このころは、後藤、板垣らが東京にあり、福岡や谷が土佐にあった。

こうしたなかで、谷は地元の自立性を強調し、四国会議というものを開催して四国13藩の連合を提唱したり、やや反動的な改革案を出したので、後藤と板垣が急ぎ帰国して谷を失脚させ、板垣が高知藩大参事となった。

征長戦争のとき、長州では四民上げて戦い、奇兵隊という農民まで参加した軍団まで登場した。ところが、戊辰戦争では庶民は武士たちに協力しないのみならず、官軍に積極的に協力することすら多かった。

これをみて、武士中心の治世に否定的だった板垣は「人間は階級によらず貴重の霊物なるを知らしめ、人々をして自由の権を与え、悉皆その志願を遂げしむるを庶機するのみ」とラディカルに四民平等が唄い、士族の無礼討ちが禁じられ、身分による服装の差別が廃され帯刀が禁止されるなど、全国に先駈けてさまざまな改革が試みられた。

明治4年には廃藩置県が実施され、宿毛出身の林有造が事実上の初代知事となった。そののち、高知県は阿波国も吸収した時期もあるが、やがて徳島県が独立し、現在の形になった。

容堂は従二位権中納言や内国事務総裁に就任したが、下級武士などとともに実務に携わることを嫌い、麝香間祇候という名誉職のみとなり、東京郊外の「綾瀬草堂」に妾を多く囲い、酒と詩作などに明け暮れ、酒楼で豪遊したが、明治5年(1872年)に脳溢血に倒れ、46歳の生涯を閉じた。

板垣退助や後藤象二郎は、征韓論に敗れて下野し、自由民権運動の指導者となった。板垣は隈板内閣で内務大臣となり、後藤は藩閥政府との協力に転じ逓信大臣や農商務大臣をつとめた。初代の衆議院議長となった中島信行は現在の土佐市出身の郷士の出である。

のちに自由党は伊藤博文の立憲政友会のもとに合流し、ある意味で、近代保守政党の主流をなすこととなり、実父である竹内綱が宿毛出身(家老伊賀家の家臣)の吉田茂も生んだ。

板垣や後藤の下野で土佐閥は弱体化したが、それでも、田中光顕、佐々木高行、土方久元らが宮中で実力者となり、天皇親政派を成して、自由民権派とは違う形で薩長閥に対抗した。また、谷干城は西南戦争で熊本城を死守して英雄となった。在野の政治家や思想家としては、足軽出身の中江兆民や中村の豪商を実家とする幸徳秋水がいる。

安芸の地下浪人出身の岩崎弥太郎は、長崎にあった土佐商会を発展させて三菱グループを創り上げた。三菱の商標は山内家の三つ柏の変形といわれるが、その後、三菱グループは土佐とのつながりをあまり持っていない。岩崎は板垣の自由党より、そのライバルである大隈重信のグループとつながり、その娘婿の加藤高明(愛知出身)や幣原喜重郎、それに土佐郷士出身の浜口雄幸などが首相となることを助けた。

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